ですから、神の公正さと優しさは魂の数々の責め苦の中で明らかになるでしょう。そして、罪を犯した人が、それらの話を聞けば、彼は、正気を取り戻し、もはや罪を犯すことはないでしょう。実際、現在の生活における改心と、実り豊かに行なわれる悔い改めは、その種の諸々の傷に対して速やかな治療をもたらしてくれるでしょう。なぜなら、悔い改めは、過去の傷を癒すばかりでなく、魂がもはや罪によって傷つけられることを許さないからです。さらに、私は次のことを付け加えましょう。たとえば、私が罪人であったとして、私が一度罪を犯したばあいと、二度三度あるいはもっと罪を犯した場合とでは、同じ罰が私に科せられるのでしょうか。そうではないでしょう。当然、罪の性質と数と大きさに応じて罰の量は、測られるでしょう。実際、神は、「私たちに諸々の涙のパン」を私たちに与え、「諸々の涙を私たちに」飲ませるでしょう。ただし、(特定の)「量において[1]」。この量は、それぞれの人が、この(世の)生活において犯した罪の大小に応じて獲得するものです。しかし、そればかりか、「主のみ手にある純粋なブドウ酒の杯は、混ざり物に満ちている[2]」と言われています。(それは)疑いもなく、それぞれの人に応じて調合され、各自の裁きは、各自が行なった諸々の悪事によってばかりでなく、諸々の善事によってもなされます。しかし、両者が混ぜられるとは申しても、「その澱(おり)」――私は、諸々の悪事の部分のことが言われていると思っています――が、完全に「飲み干される[3]」わけではありません[4]



[1] Ps.79,6.

[2] Ps.74,9.

[3] Ps.74,9.

[4] 悪事と善事が混合され、悪事が見かけ上、解消しても、それに対する罰が免除されるわけではないということである。

 

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