10 ですから、幕屋の雲が多い、「民がモーセとアロンに向かって立ち上がり、主の栄光が現れました[1]」。モーセとアロンが生活の功績によってどれほど偉大であっても[2](彼らの)魂が諸々の徳によって力強くても、神の栄光は彼らのために現れることはできなかったでしょう――もしも彼らが、諸々の迫害の内に、諸々の艱難の内に、諸々の危険の内に、そして、死に瀕した状態の内に置かれなかったなら。ですからあなたも、寝ているときに、暇なときに、あなたのために主の栄光が現れることができるとお考えにならないでください。使徒パウロも、これらの状況の中で、神の栄光を得るに値したのではないでしょうか。彼は、他のすべての人たちより勝っていると述べているのではないでしょう――「諸々の艱難の内に、諸々の窮乏の内に、諸々の牢獄の内にあるとき、三度も棒でたたかれ、一度石打たれ、三度の難破、海の諸々の危険、諸々の河川の数々の危険、盗賊たちの数々の危険、邪な兄弟たちからの数々の危険に遭った[3]」とき。それらが多ければ多いほど、それらは、辛抱強く耐え忍ぶ人たちに、神の栄光をますます豊かにもたらします。



[1] Nb.17,7.

[2] Cf.Ex.11,3.

[3] 2Co.11,23-26.

 

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