12 しかし、ある時、神の憤りが生じ、諸々の怒りのために手厳しい叱責が訪れても、私たちの心が頑なになっていて、「主に立ち返ら[1]」ず、「私たちが主のみ前でへりくだって[2]」、数々の哀願の表明により主の情動と激情を静めようとせず、かえって、神の配慮は、死すべき者たちの生活にかかわらず、これらは神には届かないと言うなら、神はいつか私たちを見捨てるでしょうし、それら(の嘆願)が神に感知されることはないでしょう。もしも私たちが、私たちの心の中でそれらのことを考え、それらのことが私たちの口から出るなら、モーセとアロン、すなわち律法の知識と悔い改めの実り[3]――それらによって私たちは差し迫った死という滅びを避けることがでます――が、私たちの心の内に存在しないのは確実です。確かにこのことは、私たちに先立つあの民に起こったと、私は思っています。そのとき彼らは「みな正道を外れ、ことごとく無益な者となりました。慈しみを行なう人はおらず、一人もいない[4]」とあります。実際、一人でもいたなら、神は決して彼らを捨てることはなかったでしょう。しかし、私たちは、似たようなことが私たちの内にも見出されるのではないかと恐れます。実際、私は、救い主なる主が次のような見解を持つのでないかと恐れています。主は、いぶかるように言っています。「人の子が来たとき、(人の子が)地上に信仰を見出すと、あなたは考えるのか[5]」と。



[1] 2CO.3,16.

[2] Jc.4,10.

[3] Cf.Mt.3,8.

[4] Ps.30,3.

[5] Lc.18,8.

 

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