14 モーセはアロンに言います。「あなたは香炉を取り、祭壇からの火をそこに置き、それに香を入れなさい。そして、すぐに宿営地に運び、彼らのために執り成しなさい。主のみ顔から怒りが出て、すでに民を荒らし始めたから[1]」と。これらの箇所に私たちは着きましので、私は、キリストの弟子たちに、神の善性について勧告したいと思います。それは、あなた方の誰かが異端者たちによって困惑させられないようにするためです――論争が生じたとき、異端者たちが彼らに、律法の神は善なる方ではなく義なる方であり、モーセの律法は善性を含まず、義を含むと言うならば[2]。律法ばかりでなく神をも非難する彼らは、どのようにしてモーセ自身とアロンが、後に福音が教えることを先駆者として行ったかを見るべきです。ご覧ください。モーセは、「敵たちを愛し、自分の迫害者たちのために祈りました[3]」。このことは、キリストば、諸々の福音の中で教えていることです。実際あなた方は、「地に顔を伏せた[4]」モーセとアロンが、自分たちを殺すために立ち上がった者たちのために、どのように祈ったかをお聞きください。そうすれば、他ならぬ福音の特質が律法の内に見出され、諸々の福音が律法の土台に支えられていることが理解されるでしょう。また、私が律法を霊的に理解する場合、私はそれを旧約とは呼びません。



[1] Nb.17,11.

[2] 訳者は、bonitasをほぼ一貫して「慈しみ」と訳すことにしているが、ここではそれがiustitia(義・正義)と対比して使われているので、「善性」と素直に訳した。いずれにせよ、オリゲネスの場合、bonitas(avgaqo,thj)は、抽象的な「善」(bonum/tVavgaqo,n)ではなく、人格神の、激情に勝る「善さ」を表す。

[3] Mt.5,44.

[4] Nb.17,10.

 

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