17 しかし宜しければ、私たちは、歴史それ自体の像[1]を叙述しましょう。それは、行なわれた事柄の外観が現れたとき、その箇所に何らかの神秘があるかどうか、私たちが探求するためです。あなたは、あのイスラエルの民が宿営地の中に、部族ごとに、家族ごとに、配置されたのをご理解ください[2]。しかし、或る力が神から遣わされ――方々に遣わされたのではなく――、先ず民の最初の部分から死をもって放逐し始めたこと[3]、そして順々に大量殺戮が進行していったことを、あなたはお考えください。次に、大祭司の衣服をまとった大祭司が進み出たこと、「香炉と火と香」を持ちつつ、放逐する使いによってもたらされた死の及んだ場所に向かったこと、そして、死が最初の人々に止めを与えて最後の人々に迫った場所に、大祭司が立ったことをお考えください。大祭司が(間に)立ち、いわばみずからを投げ出して、生きている人たちを死んだ人たちから分けたこと、彼の宥めの力と香の神秘が「放逐者[4]」であるみ使いを恥じ入らせたこと、そして、そこにおいて死が止み、命が回復されたことを、あなたはご覧ください。



[1] オリゲネスにとって、歴史は、真実の事柄の「像」(imago)である。

[2] Cf.Nb.1,2.

[3] オリゲネスの神は、その慈しみをないがしろにする者を滅ぼす。

[4] Cf.Ex.12,23.

 

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