20 しかし私は、次のように思っています。私たちの救い主なる主の最初の到来によってその像が成就されたばかりでなく、おそらく第二の到来においても同じ像が保たれるでしょう。実際、人の子は再び来られるでしょう。そして彼は来たとき、疑いもなく、或る人たちが「死んでおり」、或る人たちが「生きている」のを見出すでしょう。たしかに私たちは、そのように理解することができます。なぜなら、少なからざる人たちが、その時まで、私たちが今あるのと同じような生活の状態で見出されるとともに、多くの人たちが既に先立ち、死んでいるからである。しかし別の仕方でも、それは理解されます。すなわち、「死んでいる人たち」は諸々の身体であり、「生きている人たちは」は諸々の魂であると、私たちは理解することができます。しかし、私たち以前に、この箇所を解釈した人たちの幾人かが次のように言っているのを、私は思い出します。すなわち、諸々の犯罪の法外な数の多さゆえに、みずからの諸々の罪の内に死んだと理解される人たちは死んでおり、命の諸々の業の内に粘り強くとどまった人たちは生きていると[1]。しかしながら、私たちの救い主なるこの大祭司は、将来においても、このいずれの仕方においても「生きている人たちと死んでいる人たちとの間に立つ[2]」でしょう。ただし、彼は、次の時に「生きている人たちと死んでいる人たちとの間に立つ」と言われなければなりません。すなわち、その時(私たちの救い主なる大祭司は)、「ご自分の右手に羊たちを立たせ、左手に山羊たちを立たせ[3]」、「右手に」いる人たちに言います:「来なさい、私の父に祝福された人たち。世の創設の時からあなた方のために備えられた国を受け取りなさい[4]」云々。「左手に」いる人たちには、しかし、「不正の働き手たちよ、あなた方は、私の父が悪魔とその使いたちのために準備した永遠の火に行きなさい[5]」。「私はあなた方を知らない[6]」と。「永遠の火の中に」送られる人たちは「死んでいる人たち」であり、「み国に送られる人たちが「生きている人たち」です。



[1] Cf.eg.Philon, Quis rerum div.,201.

[2] Nb.17,13.

[3] Mt.25,33.

[4] Mt.25,34.

[5] Mt.25,41.

[6] Lc.13,27. ここに、ルカの語句がマタイの引用文に言い添えられているのは意味深い。神の慈しみを最後まで蔑ろにする者は、神によって否認され、その存在を取り消される。

 

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