23 さらに、私たちの身体が「土の器」であると言われ、使徒が次のように言う言葉の中では律法の文字が「土の器」であると言われます。こうあります:「しかし私たちは、この宝を諸々の土の器の中に持っています[1]」。実際、この両者を[2]、その言葉の中で捉えることができます。すなわち、私たちがまさしく身体の中に置かれているときには、主は、聖霊を通して恵みの宝を与えてくれます。律法の諸々の言葉の中に――それらの言葉は、いかなる修辞法によっても練磨されているようには見えないため、卑しく卑下された状態にあります――「神の知恵と覚知との宝が秘蔵されています」。こうして、当然のことながら、次のように言うことができます。それらの中に、「神の知恵と覚知が隠されている[3]」と。



[1] 2Co.4,7.

[2] 身体と律法が、ともに「土の器」であると理解されること。

[3] Col.2,3.

 

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