27 しかし、その杖が結んだ結んだ実とされる「諸々の(アーモンドの)諸々の実」とは何でしょうか。その実は、最初の覆いの下では苦く、次の覆いによって守られ包まれており、第三の覆いの下で(その実を)取る人を食べさせ養うとされます。キリストの講堂の中では[1]、律法の教えと預言者たちの教えは、そのようなものです。文字の最初の表面は十分に苦く、肉の割礼を命じ、諸々の生け贄に関する事柄や、「(人を)殺す文字[2]」によって示されるその他の諸々の事柄を定めます。あなたは、それらすべてを(アーモンドの)実の苦い皮として捨ててください。次にあなたは、道徳的な教えや節制に関する理拠が示されている殻の諸々の覆いに到達すべきです。それらは、内部に保たれている諸々の事柄のために必要ですが、いつか砕かれるべきものであり、疑いもなく消滅すべきものです。例えを挙げて言うと、諸々の食べ物の節制と身体の禁欲は、私たちがこの可滅的で受動的な身体の内にある限り、疑いもなく必要です。しかし、身体が砕かれ消滅し、復活の時に可滅的な身体から不滅の身体が、動物的な身体から霊的な身体が回復されるとき、その身体は、もはや苦悩に満ちた労苦や節制の試練に翻弄されることはなく、むしろ、それ自身の特質のおかげで、身体のいかなる腐敗にも支配されません。ですから、このように、節制の理拠は今でも必要ですが、後ほど求められるべきものではありません。しかし第三に、それら(の殻)の内に、あなたは、「神の知恵と覚知[3]」に関する諸神秘の密かな意味をも見出すでしょう。その意味によって聖人たちの諸々の魂は、現在の生活においてばかりでなく、将来の生活においても養われ食物を与えられるでしょう。これが、あの大祭司の(杖が結ぶ)実で、「正義に飢え乾く人たち」約束されているものです。彼らは、その実によって「満たされるでしょう[4]」。



[1] in auditorio Christi.

[2] 2Co.3,6.

[3] Col.2,3.

[4] Mt.5,6.

 

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