しかし、諸々の香炉を祭壇に結びつけよという命令は、さらに別の仕方でも理解することができます。先ず、それらが「青銅の[1]」と言われていること自体が、無駄なことではないように見えるでしょう。実際、真の信仰と、神の言葉の完全無欠な宣教が話題になっている場合には、諸々の銀製品や諸々の金製品が語られます。たとえば、金の輝きは、信仰の純粋さを示し、「火で精錬された銀は、吟味された諸々の雄弁[2]」を意味しています。これに対し、「青銅の」と言われている諸々の器は、音声だけから成り立っており、霊の力の内にはありません[3]。それらは、使徒が言うように、「やかましい青銅器、鳴り響くシンバル[4]」です。ですから、もしも私たちが、それらの「諸々の青銅の香炉」を、すなわち異端者たちの諸々の声を神の祭壇に供えるなら――神の祭壇には、神的な火があり、真の宣教があります――、諸々の偽りとの対比から、真理そのものがなおいっそうよく輝くでしょう。実際、もしも私が、たとえばマルキオンやバシリデスやその他の任意の異端者の諸々の発言を取り上げ、真理の諸々の言葉や、神聖な諸文書の数々の証言によって――それらをいわば神的な祭壇の火としながら――それらの発言を論駁するなら、その比較それ自体によって、それらの不敬虔がより判然と現れるのではないでしょうか。実際、教会の教えが単純で、異端者たちの諸教義による数々の権利主張によって外部から包囲されなければ、私たちの信仰が、このように明晰なものとして、このように吟味されたものとして見られることはないでしょう。反対する者たちの攻撃が、普遍的な教えを包囲しています。しかしそれは、私たちの信仰が怠惰によって鈍感にならないようにし、かえって数々の試練によって引き締められるようにするためです。



[1] Nb.17,4.

[2] Ps.11,7.

[3] Cf.Hom.Ez.XIII,2(SC 321, p.377).

[4] 1Co.13,1.

 

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