31 第二に私たちは、次のことを言わなければなりません。すなわち、神はそれらの箇所において、ご自分の約束を四重にお与えになりましたが、約束した以上にはるかに多くの一層貴重な事柄を惜しみなくお与えになりました。しかし、神の何らかの約束が含まれる()文書のすべての箇所でも、やはり――その約束に至るのに相応しい人が誰かいるなら――将来において幾倍もの事柄が準備されいるでしょう。こうして、使徒が言っていることが本当に成就されます。こうあります。「目が見ず、耳が聞かず、人の心にも上らなかった諸々の事柄を、神はご自分を愛する者たちのために準備しました[1]」と。あなたが見たり聞いたりすることが誰にも許されなかったばかりでなく、(人の)心すなわち人の考察にも上り得なかった諸々の事柄がどれほどあり、またどのようなものであったかを、あなたはご覧ください。あなたが(それらは)地や天であるとか、この太陽とか、目に見える光の輝きであると言うなら、それらすべてのものを目は見ており、耳は聞いていて、「目が見ず、耳が聞かず、人の心にも上らなかった諸々の事柄」に属するものではあり得ないでしょう。それらの事柄はみな、あなたが見るどのようなことも、あなたが聞くどのようなことも、あなたが考え得るどのようなことも越えており、超越していると、あなたはお考えください。「神を愛する人たち」のために取って置かれているものは、あなたの心の考察に上るとは誰も考えなかった事柄であると、あなたはお知りおきください。それゆえ、この種の諸々の約束の中では、諸々の身体的な事柄に関して何ごとも考えるべきではないと私は思います。物体的な物質の考察が、人間の思考による把握を全く逃れているというのではありません。どのような人の理解にも、どのような人の理解にも上り得ない諸々の事柄が、神の知恵の内にのみ含まれています。



[1] 1Co.2,9.

 

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