34 ですから、このようにして、キリストであるアロンの杖から、すべての信者ひとり一人が芽生えます。それらの(信仰生活の)四つの違いは、()文書の他の諸箇所では、四つの年齢として示されています。すなわち使徒ヨハネは、その書簡の中で、それらの四つの年齢を神秘的な区別の下に把握しています。彼は言います。「子供たちよ、私があなた方に書いたのは」、「少年たちよ、私があなた方に書いたのは」、「青年たちよ、私があなた方に書いたのは」、「父親たちよ、私があなた方に書いたのは[1]」と。彼は紛れもなくそれらの箇所で、身体的な年齢ではなく、私たちが祭司の杖のこの芽生えにおいて示されていると述べたように、魂の諸々の進歩の違いを設定しています。それらはみな、アロンの杖の内に表されているばかりでなく、あの杖の内にも表されています。すなわち、「エッサイの根から出た杖――その根から花が昇り、その花の上に神の霊が安らう[2]」とあります。また、この箇所において、杖が「出る」のと、花が「昇る」と言われていること自体が、無駄なことでないように見えます。すなわち、キリストは実体において一つであるにもかかわらず、彼がその内で働くところの個々の人たちの必要に応じて、その人たちのために違ったものになります。ですから、いっそう怠惰で不精なに対してキリストは、その躾として「杖」になります。また、杖については、「昇る」とは言われません。「出る」と言われます。無為で怠惰な人は、彼が不正に留まっている状態から脱出し、杖によって駆り立てるかのように、すなわち、いっそう厳格な教えの厳しさによって戒められながら別の状態に移行すべきです。これに対し正しい人の場合には――義人は、「棕櫚のように開花します[3]」から――キリストは「昇る」と言われます。諸々の譴責の必要な人に対しては、杖が「出ます」。それに対し、義に向かって進歩する人には、(キリストは)「花となって昇ります」。しかし彼は、義人が「霊の諸々の実――愛、喜び、平和、忍耐[4]」、その他の諸々の徳――を、私たちの主であるキリスト・イエスにおいて結ぶまで昇ります。彼に「栄光と力が代々にありますように。アーメン[5]」。



[1] 1Jn.2,12-14.

[2] Is.11,1-2.

[3] Ps.92,13.

[4] Ga.5,22.

[5] 1P.4,11.

 

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