しかし、私たちが読んだ事柄から、義人たちの各々が、他の人たちとの比較によって一層輝いていることが分かります。ノアについて、彼は、「その生まれにおいて義人で、完全であった[1]」と書かれています。この言葉の内に、次のことが示されています。それはすなわち、彼は、あらゆる点で完全なのではなく、「その生まれにおいて完全だった」のであり、彼は他の人たちに比べて義人であると宣言されたということです[2]。ロトについても同様に考えられるべきであると、私は考えています。実際、ソドムの人たちが日ごとに悪化すると、彼はますます義人として写りました[3]。私たちが手にしているこの書それ自体においても、(約束の)地を調べた人たちが戻ってき、彼らの内の十人が、数々の恐ろしい話で民を絶望の淵に陥れましたが[4]、残りの二人、すなわちカレブとヨシュアは、諸々の善き事柄を告げ、決意を揺るぎなく保つように民を励ましました。そのとき、彼らの告知というよりも、彼らの仲間たちの恐怖が、神からの不滅の功績を彼らにもたらしました。実際、彼らの内に魂の徳が荘厳に輝くことはなかったでしょう――残りの十人の人たちの破廉恥な臆病に起因する恐怖が露見しなかったならば。



[1] Gn.6,9.

[2] Cf.Orig.Hom.Ez.IX,2(拙訳); Philon,De.Abr.,36:「彼は、その生まれにおいて完全であった。それは、彼が完璧であった、あらゆる点で完全であったということを意味するのではなく、当時の人々との比較において完全であったということである」。

[3] Cf.Gn.13,13.

[4] Cf.Nb.13,31-33.

 

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