パスカという名称について

 

1 [1,1]

 パスカ(pa,sca)の逐語的な解釈を開始するに先立って、パスカという単なる呼称それ自体について二、三述べておくのが適当であろう。と言うのは、大部分の兄弟たちが、あるいはたぶんすべての兄弟たちが[1]、パスカという呼称は、救い主のご受難[2]にちなんで、パスカという名前で呼ばれたと思っているからである。ところがヘブライ人たちの間では、目下取り上げられている祭りは、その固有名詞として、パスカと(いう言葉で)呼ばれるのではなく、パス[3](いう言葉で)呼ばれているのである。ところで(この)パス(という言葉)の三つの文字と彼らの間で一層強く発音される帯気音が、当の祭りの名前を構成している。これは、もしも訳されれば、過越[4]ということになる。事実、(イスラエルの)民は、その祭り(の日)にエジプトから脱出したので、その祭りがパスすなわち過越と呼ばれるのは、理にかなったことなのである。そういうわけで、その名前はギリシアの言葉ではヘブライ語通りに発音され得ないので、なぜならギリシア人たちは、ヘブライ人たちの間で一層強く発音される帯気音を発音する能力がないが故に、パスと言うことが出来ないので、その名前はギリシア語化された。すなわち預言者たちの間でそれは、パァセク[5]とギリシア語化されて言われていたが、なお一層完全にギリシア語化されてパスカ[6]と呼ばれるようになったのである[7]。そしてもしも私たちの内の誰かがヘブライ人たちのところに軽率に進み寄って、パスカは救い主のご受難の故にそう名付けられたと言おうものなら、彼は(次のことを)まったく知らない者として彼らによって嘲笑されることだろう。

 

2 [a,2]

 (すなわち)その呼称から意味されるものが何であるかをまったく知らない者としてである。(ただしそれは)彼らが完全なヘブライ人[8]としてパスカという名前を正確に解釈したと仮定した(上での話しである)  

  さて、単なる呼称それ自体について以上述べたことで、私たちがパスという呼称から何が意味されるのかを教えられ、建徳されるには、充分だろう。それは私たちが、ヘブライ語で言われていることに性急に着手しようとしないようにするためであり、ヘブライ語の解釈を前もって知らないようなことがないようにするためなのである。では、いまや私たちは、パスカというものが過越を意味する(ということを弁えながら、聖書に言われている)言葉それ自体の検討に入ることにしよう。

 



[1] 「兄弟たち」(avdelfoi,)は、キリスト者の同僚を指すためにオリゲネスによってしばしば使用される語である。

[2] to. pa,qoj;この動詞形pa,scein(苦しむ)は、語形がpa,sca(過越)とよく似ている。

[3] faj

[4] dia,basijオリゲネスは、「過越」という言葉を表すのにdia,basij5回使い(1,2,4節参照)u`pe,rbasijを2回使用している(45,47節参照)。いずれも本書における限り、同意義で用いられている。

[5] fase,k

[6] pa,sca;フランシスコ会訳聖書『出エジプト記』、中央出版社、1985年、79頁、「過越」についての注(4)を参照せよ。

[7] P.ノータンによると、「パスカ」(pa,sca)は実際には、アラム語で常用の強調形(ahsp)に由来する。Cf. O.Guéraud et P.Nautin,op.cit.p.114, n.4.

[8]「完全なヘブライ人」とは、旧約の預言がキリストにおいて実現したことを信じるキリスト者を意味する。この語句は、本論の第29節にも見られる。Cf. De Mart. 33(GCS I, 28, 18):『殉教の勧め』(小高毅訳)創文社1985年187頁。