羊と山羊の内から取らなければならない

 

 [そして食べる人は、同じ仕方で食べるのではなくて、おのおのその固有の能力に応じて異なった仕方で食べるのである。なぜなら、皆が小羊としての彼に与ることが出来るわけではないからである。むしろある人たちは、そしてたぶんより多くの人たちは、子山羊としての彼に与るのである。したがって完全で、もはや罪のない者であろうと努力する人たちは、小羊から(取って)食べるのである。と言うのは、キリストは「世界の罪を取り除く神の小羊[1]」だからである]。他方、依然として罪の下にある人たちは、子山羊から取ることになろう。なぜなら、律法によると子山羊が贖罪の捧げ物として奉納されると言われているからである[2]。たぶん福音書も次のような場合に同じ相異を見ていただろう。すなわちそれは、救い主がご自分に付いて来た人たちに同じパンをたらふく食べさせたのではなく、異なったパンをたらふく食べさせたときのことである[3]。実際、救い主はある人たちには小麦から出来た五つのパンを割き、またある人たちには大麦から出来た[4]七つのパンをお割きになったのである[5]。それは/

 

24 [II,8]

[獣のように生活していて、まだ理性的に生活していないが故に、混じり気のない小麦のパンとしてのキリストに与ることが出来ない人々が、大麦のパンとしてのキリストに与るようになるためである。  

 そしてそうした人たちはかなりたくさんいるので、大麦のパンが七つあるのである。なぜなら、それは充満した数であり、怠惰の数だからである。その数に従ってまさに大多数の群衆は手を無為に遊ばせて、「日のあるうちに働く[6]」こともなく生活している。しかし小麦のパンは五つある]。ちょうど感覚(が五つあるの)と同じように。み言葉に与っている人たちは[7]それらの感覚を空腹にさせることはなく、絶えず理性的なパンで養われる感覚を獲ているのである。(聖書に)こう書かれている通りである。「彼らは空腹を覚えることもなく渇きを覚えることもないだろう[8]」。「また彼らの目もまどろむことはないだろう[9]」云々と。  

 「そしてそれはこの月の十四日までお前たちのために生かしておかれねばならない。そしてイスラエルの子らの全会衆は夕暮にそれを殺し、/

 

25 [II,9]

その血を取り、彼らが(小羊を)食べる家々の(戸口の)二本の柱と鴨居にそれを塗らなければならない[10]」。



[1] Jn.1,29.

[2] Cf.Lv.4,28;He.10,18;Lv.16,6-10,15-22.

[3] Cf.Mt.14,19-20.

[4] Cf.Jn.6,9.

[5] 「大麦からできた七つのパン」は、オリゲネスの思い違いで、新約聖書には見出されない。オリゲネスは、248年頃に書かれた『マタイによる福音註解』第11巻でこれを訂正している。Cf. Comm.Mt.XI,2 (GCS X,36,12-13); cf.ibid.XI,19 (X, 68,22-23).

[6] Jn.9,4.

[7] oi` logikoi,

[8] Ap.7,16.

[9] Is.5,27;cf. Ap.7,17.

[10] Ex.12,6-7.