肉を火に焼いて食べること

・・・ (原文約四行欠落)[1] ・・・

  [しかしもしも小羊がキリストであり、<キリストがみ言葉である>とすれば、神的なみ言葉の肉は、神の書でないとすれば何であろうか。この神の書こそ、生のままで、あるいは水で煮て食べると相応しくないものなのである。したがってもしも、むきだしの言葉、それだけを取り扱う人々がいれば、彼らは救い主の肉を生のままで食べることになろうし、彼の生の肉に与ることで生命ではなくて死を自分自身のために獲ることになろう。彼らは人間のようにではなく獣のように彼の肉を食べるのである]。なぜなら、使徒は、「文字は(人を)殺し、霊は(人を)生かす[2]」と私たちに教えているからである。  

 更にもしも霊が神から私たちに与えられ、また「神が焼き尽くす火[3]」であれば、霊それ自身も火である。使徒はこのことを知っていたので、私たちに「霊によって燃え立つ[4]」ように促しているのである。したがって正当にも、聖霊は火と言われる。私たちは、この霊を受け入れてキリストの肉と交わらなければならない。もちろん私は、(キリストの肉と言うことで)神の書のことを言っているのである。こうして私たちはその霊的な火を通して/

 

27 [II,11]

[それらの神の書を焼き、火で焼かれたそれらを食べるのである。実際、み言葉はそのような火を通して変えられることになろうし、私たちはそれらのみ言葉の甘味と栄養価に気付くことだろう]



[1] この欠落個所には、「子羊の肉を生のままで、あるいは水で煮て食べてはならない。火に焼いて食べなければならない」を要約する説明があったものと考えられる。

[2] 2 Co.3,6.

[3] Dt.4,24;He.12,29.

[4] Rm.12,11.