生のままで、あるいは水で煮て食べてはならない

 

・・・・・・

 

 その水を飲むと[1]、彼らは、臓腑から永遠の生命へと涌き上がる[2]水の流れを持つことになる[3]。ところが救い主は、「この水から飲む人は皆、再びのどが渇く[4]」と言って、サマリアの女の水を非難しておられる。しかし救い主はこの水については推奨し、こう述べておられるのである。「しかし私が与える水から飲む人は/

 

28 [II,12]

永遠に渇くことがない[5]」。  

・・・ [原文約十九行欠落] ・・・[6]  

 したがって私たちは、水と一緒に救い主の肉を――勿論、私は聖書のみ言葉のことを言っている――煮沸しないように命じられている。また、一緒に煮沸することによってみ言葉を水浸しにすることが出来るような他の物質をみ言葉に混ぜたりしないように命じられている。むしろ私たちは、火だけで、すなわち神的な霊だけで調理して、それらのみ言葉に与るように命じられており、み言葉を生のままで食べたり水で煮たりしてはならないのである。  

 確かに、ユダヤ人たちは、聖書の言葉だけに頼って、それらに生のままで与っているのである。/

 

29 [II,13]

 [しかしもしも彼らが、霊を通して真の割礼を見て――もしも(これが)起こるのなら――真の安息日を見るならば、更に彼らが「もはや誰も働くことの出来ない夜が来る前の日のあるうちに働く[7]」のであれば、そのとき彼らは、霊を通して調理されたみ言葉を食べることになる]  

・・・ [原文約十六行欠落] ・・・

 

・・・ 固さ ・・・

・・・ 水っぽくして ・・・

・・・ 霊によって ・・・

・・・ 炎と ・・・ によって ・・・

・・・ 彼らは一緒に焼いた ・・・

・・・ に与り ・・・

・・・ を食べた人たちの ・・・

 

30 [II,14]

 

・・・ [原文約二十一行欠落] ・・・



[1] この直前に、『ヨハネ』3,37の「渇きを覚える人は、わたしのもとに来て、飲みなさい」への言及があったものと考えられる。

[2] Jn.4,14.

[3] Jn.7,38.

[4] Jn.4,13.

[5] Jn.4,14.

[6] ここの欠落部でオリゲネスは、サマリアの水と主が与える水について解説していたものと考えられる。彼はこの二つの水の区別を既に『創世記講話』1.2(GCS VI, 2.21-5.20);ibid., 6.5(75.15-76.8)で詳細に論じている。

[7] Jn.9,4.