頭を足および内蔵と共に

 

 [ある人々はその(小羊の)頭に与り、またある人々はその手に与り、更にある人々はその胸に与り、また他の人々はその内蔵に与り、別の人々はその腿に与り、更にある人々は比較的多くの肉があるとはいえない足に与る]。おのおの、自分に固有の能力に応じて、それに与るのである。したがって同様に、私たちは、神のみ言葉に与るとき、私たちに出来る限りで、真の小羊の一部に与るのである。それで頭に与る人たちがおり、/

 

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またもしも望むなら、頭の諸部分の一つひとつに与る人たちがいるのである。

  [例えば、耳に与る者たちは、耳を獲て、彼のみ言葉を聞くことが出来るようになるだろう[1]。また目を味わう者たちは、遠くの方まで見渡して[2](彼らの)足が彼らを躓かせることはなかろう[3]。更に手に与る者たちは、働く人たちであり[4]、もはや萎えた手[5]や与えるときに出し渋る手[6]を持たない。彼らは主が怒る前に[7]、懲らしめを受けるのである[8]。また他の人たちは、(食事を取るためにイエスの)胸もとによりかかり[9]、その食事を通して、キリストの裏切り者たちが誰であるかを知るようになるだろう[10]。そして内蔵を食べる勤勉な人たち、彼らは神の深みまでも見ることになろう[11]――。なぜなら、内蔵は変化に富んだ皺襞の如きものを備えていて、生命維持に必要なすべてのものを[12]身体のために作り出すからである。この種の人こそ、まさしに諸々の秘義の手ほどきを受けた人[13]なのである。あるいは彼らは、もしも私たちが頭を神性と見做せば、隠された受肉の理拠、いわば中心に隠された受肉の理拠を見ることだろう[14]。他方、腿に与る人たちは、肉体を汚れのないように護って[15]、キリストが導いて下さるところへならどこへでも従って行く。更に、足に与る人たちは、もはやひるむことなく熱心に[16]、キリストが与えて下さる上への招きという賞与を目指して走るのである[17]。しかし頭は信仰で、また足は、これがなければ信仰が死んだも同然となるような、行いであるということもあり得る[18]]。/

 

32 [II,16]

[そしてパスカを食べる人たちの食物は多種多様である。しかし皆は一つになっている[19]。まさに頭を食べる人は、足を食べる人と一つなのである。と言うのは、「頭は足に向かって、『私はお前たちを必要としない』と言うことが出来ない[20]」からである。確かに、食される肢体はたくさんあっても、キリストの身体は一つである[21]。ともあれ、私たちは力の限り肢体同志の調和を保って、キリストの肢体をバラバラに引き裂いているとして非難されることのないようにしよう[22]]  

 [お前たちは朝までそれを少しでも残してはならない。そしてその骨を一つも砕いてはならない。また朝まで残ったものは、火の中で焼き尽くされねばならない[23]]



[1] Cf.Mt.11,15;13,9.43.

[2] Ps.33,9;He.6,4-5.

[3] Ps.20,12;Jr.13,16;Mt.4,6;Lc.4,11.

[4] Cf.Jn.9,4.

[5] Cf.He.12,12.

[6] Cf.Si.4,31.

[7] Cf.Ps.2,12.

[8] ここに述べられた懲らしめの考えは、神のよる凝らしめを話題にするHe.12,12に促されたものであろう。

[9] Cf.Jn.13,25

[10] Cf.Jn.13,21-26.

[11] Cf.1 Co.2,10.

[12] th.n o[lh zw,wsin

[13] o` evn musthri,oij muou,menoj

[14] ここでオリゲネスは、ヒッポリュトスと同様に(Ps.-Huppolytus, Homélies Pascales 29; SC 27.155)、子羊の各部をキリストの人性と神性に関連づけている。

[15] Cf.Ap.14,4.

[16] Cf.Rm.12,11.

[17] Cf.Ph.3,14.

[18] Cf.Jc.2,17.

[19] Cf.Act.2,44.

[20] 1 Co.12,21.

[21] Cf.1 Co.12,20.

[22] Cf.1 Co.6,15.; cf.Cement de Rome, Ep. aux Corinthiens,46,7: `Inati, ))) diaspw/men ta. me,lh tou/ Cristou/.

[23] 欠落部には文脈上Ex.12,10が引用されていたものと思われる。