エジプト脱出のパスカ

 

 ヘブライ人たちの民が当時、エジプトを脱出しようとしたとき、その祭りの律法が次のようにして彼らに与えられた。すなわち、

 家ごとに、各々の人たちは、しみのない完全な雄の小羊を取ってそれを屠り、生のままでもなく水で煮たものでもなく、火で焼かれたものを夕暮に食べなければならない。こうすればエジプト人たちの初子を打ち滅ぼす方は、彼らの(家の)戸口の鴨居が(小羊の)血で塗られているのをご覧になって彼らに触れることはない[1]  

 そしてこれらのことが行われた後に、民はエジプトを脱出し、エジプト人たちの初子は滅ぼされたのである。そしてファラオは/

 

3 [a,3]

ヘブライ人たちの脱出の後、考えを改めて[2](自分の)軍と戦車で彼らを追跡するために出陣した。こうして彼は紅海に沈められ、モーセは民と共にその海を渡ったのである。しかし今日に至るまでパスカが行われ[3]、小羊が屠られていること、そして民がエジプトを脱出しているということ、これをまさしく使徒は私たちに教えているのである。彼は次のように言っている。  

 「しかも私たちのパスカ、キリストは屠られたのです。ですから、私たちは古いパン種ではなく、また悪意やよこしまのパン種でもなく、混じり気のない真理の種なしパンによって、(祭りを)祝おうではありませんか[4]」。  

 しかしもしも私たちのパスカ、イエズス・キリストが屠られたのであれば、キリストを屠る者たちはエジプトを脱出して海を渡り、ファラオが(海に)沈められるのを見ることだろう。他方もしも彼ら(キリストを屠った者たち)の内の幾人かが、エジプトに戻ろうと望むなら、その人たちは聖なる地[5]に入ることはないだろう。  

 しかし歴史上に起こった出来事の中に含まれている意味が理性に対して一層完全に示されるように[6]、私たちは言葉そのものに遂語的に当たって行くことにしよう。(こう書いてある。)  

 「そして主はエジプトの地でモーセとアロンに向かって次のように言われた。『この月はお前たちにとって諸々の月の元である。それは一年の諸々の月の中の最初の月である』と[7]」。



[1] Cf.Ex.12,3-13.

[2] Cf.Ex.14,5.

[3] オリゲネスは、この言葉で、過越は単なる過去の出来事であるばかりでなく、地上を旅する今日のキリスト者の生活の中にも起ると述べているのである。

[4] 1 Co.5,7-8.

[5] オリゲネスにとって「聖地」は、パレスチナという地理的な場所を超えて、二つの意味を持っている。すなわち、魂が原則的にこの世において到達し得る完成の域、およびこの世の生活の彼岸にある至福に満ちた完成の域。Cf.Hom.Nb 26.4(GCS VII,294,20-251,13).

[6] オリゲネスは、文字通りの意味あるいは歴史的な意味の中に含まれる霊的な意味に言及している。彼にとってユダヤ人の歴史的な過越は、キリスト者の真の過越、すなわち洗礼によって開始されるキリスト者の新しい生活様式への移行を表している。

[7] Ex.12,1-2.