お前たちはその骨を一つも砕いてはならない

・・・ [数行欠落] ・・・/

 

33 [III,1]

私たちはキリストの肉に、すなわち神の書に与っている。

 

・・・ [原文約十行欠落] ・・・

 

私たちは真の小羊の ・・・ を検討することにしよう。事実、使徒は、私たちのパスカの小羊がキリストであることを告白して、次のように言っているのである。「確かに、私たちのパスカ、キリストは屠られたのです[1]」と。その肉と骨と血は、上に証明されたように[2]、神の書であり、それら(の書)を私たちが食べると、私たちはキリストを獲るのである[3](聖書の)み言葉は彼の骨となり、肉はみ言葉の意味からもたらされる。私たちは、それらに当然の如く従って前進しながら、それらの後に到来するものを「ぼんやりと鏡を通して見ているのである[4]」。他方、血は新しい契約[5]の福音の信仰(となる)。それは使徒が次のように言って証言している通りである。「また、契約の血を汚れたものと見做した者は[6]」と。この血、すなわち信仰を/

 

34 [III,2]

塗られて、私たちは破壊する方を逃れることになろう。またたとえ素人が ・・・

 

・・・ [原文約七行欠落] ・・・



[1] 1 Co.5,7.

[2] これによって言及される個所は、この節の始めの欠落個所か、第29節と第30節にまたがる欠落個所のいずれかであると考えられる。

[3] オリゲネスはヒッポリュトスのように、子羊の骨の毀損禁止を磔にされたキリストに関係づけない(Ps.-Hippolytus, Homélies Pascales 30:SC 27, 157)。むしろ彼は、この禁令を神のみ言葉としてのキリストに関係づけている。なおオリゲネスは本論に先立って『ヨハネによる福音註解』の中で、子羊の骨の毀損禁止は、聖書全体に行き渡る聖霊の一致の破壊禁止と理解している。Cf.Comm.Jn. X,18(13),107(GCS IV,189.6-13;邦訳279-280) et cf. Comm.Mt. 10.22(GCS X, 31. 11-13).また彼の理解には、祭儀の共同体的次元が見られない。以下を参照せよ。フランシスコ会聖書研究所訳『出エジプト記』中央出版社198587頁注(15):「聖ヨハネは、キリストが十字架上でほふられたとき、キリストの前表である過越の小羊の場合と同じく、キリストの骨も折られなかったことを指摘している(ヨハネ19,36)。このおきての本来の考えは、生け贄を分割せずに一つのままを全員で会食して宗教的一致を表すことであったらしい( 9節が生け贄を切ったり煮たりせず丸焼きにすることを定めているのもこのためであろう)。この点において、過越の会食は聖体の宴に似ている(1コリント10,17参照)」。

[4] 1 Co.13,12.

[5] Cf.1 Co.11,25;Lc.22,20.

[6] He.10,29.

 

34 [III,2]

塗られて、私たちは破壊する方を逃れることになろう。またたとえ素人が ・・・

 

・・・ [原文約七行欠落] ・・・