お前たちの腰に帯をする

 

 「腰に帯をする」ということは何であるかを、私たちは聖書の他の言葉から教えられるだろう。使徒はメルキゼデクによって祝福されたアブラハム[1]の腰から出たものを説明して次のように言っている。「十分の一を受け取るレビも、(アブラハムを通じて、この)十分の一を納めました。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ(この)太祖の腰の中にいたからである[2]」。また別の箇所で彼は、「彼らもアブラハムの腰から出た者であるのに」と言っている。更に、(聖書は)『ヨブ記』の中で悪魔についてこう言っている。「しかも彼の力は腰の中、腹のへその中にある[3]」と。実際、(悪魔は)特にそうした欲求を通して人間たちを錯乱させ打ちのめすことが出来るのである。なぜなら、腰はいわば男性の意味で、また腹のへそはいわば女性の意味で体裁よく理解されるからである[4]。このようにして(悪魔が)取り分けそうした欲求を通して男性と女性を圧倒することが明らかにされよう。そこで、聖書は腰が性交の意味で措定されていることを証言しているのであるから、私たちは、聖書がなぜパスカのとき、私たちが腰に帯をして家族ごとに食べねばならないと命じているかを理解する途上に歩を進めている。私たちは、パスカを食べるとき、次のように命じられている。/

 

36 [III,4]

すなわち肉体的な同衾から浄められていることを命じられているのである。実際、腰の帯はそのことを示している。以上のように(聖書は)、私たちがキリストの肉に与るとき、生殖部に帯をするように教え、交接の衝動を止めるように命じるのである。実際、もしもある競技者が ・・・

 

・・・ [原文四行毀損] ・・・

 

・・・ 競い合い、朽ちる賞与のために節制を行う人々たちに眼差しを向けて、朽ちる賞与を獲ようとする。しかし彼自身は朽ちない賞与を獲ることを追い求めているのである[5]。実際、もしも人がこのようにして腰に帯をするなら、彼はまた、朝まで肉を少しでも残しておくことが出来ないようになるだろう。  

 こうした理由で洗礼者ヨハネも、彼は完全な人であったので、「自分の腰の回りに皮の帯をしていた[6]」。彼は、自分の一切の生殖の衝動をその場所で死なせたことを明らかにしており、その皮は死を示しているのである。なぜなら、死は彼の本性全体に浸透していたからである。また結婚している人もパスカを食べるときは、自分の腰に帯をしなけねばならない[7]。と言うのは、「幸いなるかな、妻のある人たち、/

 

37 [III,5]

彼らが妻がないかのようにするとは[8]」と、使徒は言っていたからである。



[1] Cf.He.7,6.

[2] He.7,9-10.

[3] Jb.40,16.

[4] 同じ考えがオリゲネスの『エゼキエル書講話』VI,4 (拙訳準備中)にある: Et vide quomodo honeste viri mulierisque genitalia obtectis nominibus Scriptura nuncupaverit, ne per ea vocabula,quae in promptu sunt, turpitudinem signi-ficaret.

[5] Cf.1 Co.9,25.

[6] Mt.3,4.

[7] この一文には、聖体祭儀が暗示されているように見える。Cf.Fragm. 1 Co.7,5 (JTS,9.p.502,l.11-15): ei=ta i[na me.n a;rtouj proqe,sewj la,bh| tij( kaqaro.j ei=nai ovfei,lei avpo. gunaiko,j) i[na de. tou.j mei,xonaj th/j proqe,sewj la,bh| a;rtouj( evf'w-n evpike,klhtai to. o;noma tou/ qeou/ kai. tou/ cristou/ kai. tou/ a`gi,ou pneu,matoj( ouv pollw/| ple,on ovfei,lei tij ei=nai kaqarw,teroj( i[na avlhqw/j eivj swthri,an la,bh| tou.j a;rtouj kai. mh. eivj kri,ma* また、この一文や他の個所で使用されている「パスカを食べる」のギリシア語to. pa,sca trw,geinは、『ヨハネによる福音』6,54-58に見られる動詞と同じである。

[8] 1 Co.7,29.