足に履き物を着ける

 

 更に(聖書は)パスカを食べる人たちは、足に履き物を着けねばならないと言っている。これはある人たちには、モーセに対して下された託宣に矛盾するものだと思われるだろう[1]。なぜなら、モーセは、彼が「神聖な地」を歩んでいたとき、「自分の足から履き物を解く」ように命じられているからである[2]。ではどうして、パスカもまた神聖なものであるのに、パスカを食べる人たちは自分の履き物を着けるように命じられるのであろうか。しかしながらそれらの事柄は矛盾するものではなく、様々に異なる局面を持っているのである[3]。すなわち、ある人が神聖な地を歩むとき、彼は、死すべきものを何ものも自分の内に持たないように命じられる。と言うのは、彼は自分の可死性をどんなものであれ何一つ包み隠さないことになっているからである。他方、パスカを食べるときには、(出発の)準備が(既に)整っているようにするために急いで食べねばならないと命じられている。それはまた使徒も教えている通りである。彼は、「福音の準備としてあなた方の足に履き物を着け[4]」と言っている。  

 日が訪れたとき[5]、彼がつつがなく脱出することが出来るように、彼は(履き物を)着けるように命じられているのである。更にここには、肉体の復活に関する問題について何かしらしごく明瞭なことが明示されている。肉体もまた、私たちがエジプトを出て行くとき、私たちと共に脱出するのである。実際、「私たちは、地上にある肢体、/

 

38 [III,6]

淫らなこと、汚らわしいこと[6]」「放縦、偶像礼拝[7]」などを死なせ、こうしてエジプトを脱出しなければならないのである。



[1] オリゲネスは、ヒッポリュトスのように(cf. Ps.-Hippolytus, Homélies Pascales 34:SC 27, 157-159)モーセの命令と過越規定との矛盾を強調する代わりに、その矛盾の解消に努めている。それはおそらく両者の指令の矛盾が、旧約と新約の区別を強調するグノーシス主義に道を開く危険があったからであろう。

[2] Ex.3,5.

[3] VAlla. tau/ta ouv mako,mena, evstin( e`te,raj de. kai. e`te,raj evpinoi,aj lambano,mena

[4] Ep.6,15.

[5] Cf.Rm.13,12.

[6] Col.3,5.

[7] Ga.5,19-20.