手に杖を持つ

 

 また、私たちが律法と福音との類似性を見るために、まさに福音の言葉から律法にかなって言われているものを引用してみることにしよう。モーセは神から指図を受けて、民を神聖なる地へ導き入れるために、民をエジプトから導き出そうとしていたとき、履き物を持たないように命じられた。使徒たちもまた、異邦人の民を可知的なエジプトから導き出すように遣わされたとき、旅行のための杖も頭陀袋も持たず、履き物も着けないように命じられているのである[1]。前者では、急いでパスカを食べる人たちは履き物を自分の足に着けるように命じられている。同様に福音においても、既に明らかにされたように[2]、既にパスカを屠り食べることが出来る人たちに対して、使徒は、彼らがあたかも既に「真理で腰に帯をし」「正義の胸あてを身につけて[3]」「救いのかぶとを[4]」かぶった人たちであるかのように見做して、今や「福音の準備として(履き物を)着け[5]」、また自分たちの手に今や棒を持つ)ように命じているのである[6]。あたかも彼らが今や訓練に/

 

39 [III,7]

与る人たちであるかのように、使徒は(このことを)命じている。と言うのは、棒は訓練の象徴だからである。確かに、「自分の棒を惜しむ人は、自分自身の子を憎み、愛する人は慎重に訓練する」と、私たちは『箴言』の中に読んでいる[7]

 

オリゲネスのパスカについて、第一部



[1] Mt.10,10;Mc.6,9.

[2] 本論第37節。

[3] Ep.6,14.

[4] Ep.6,17.

[5] Ep.6,15.

[6] 実際にはパウロは、「棒」に言及していない。これはオリゲネスが自分の記憶をたどりながら口述したときの言い誤りであろう

[7] Pr.13,24.