第二部

パスカの霊的意味[1]

 

 聖なる祭儀と聖なる奉献[2]とが、イスラエルの子らの長子たちの救いのために命令を下される神(のご意向)に従って、ファラオと彼の指図の下に神のみ言葉に従わなかった[3]人たちとに怒りが加えられた[4]という理由で、かつて{モーセの}時代に神秘的に[5]挙行された。そうであれば、それは彼らの時代、その儀式が実行されたときにだけ、挙行されたもので、したがってそれは別の仕方で、別の解釈に従って、私たちの成就の時代に[6]、つまり「諸々の世の終わりの差し迫った[7]」時代に受け入れられるべきではないのかどうかが、いま私たちによって問われるのである。(ところで)私たちは、神聖で権威のある聖書が沈黙を守らずに、/

 

40 [III,8]

与えられた諸々の掟に関する履行を私たちに強制していること、また(聖書で)言われている次の言葉に従って私たちの時代に至るまでそれらが実行されていることを見出だしている。すなわち、「あなた方は聖書を調べなさい。あなた方はその中に生命(の泉)を持っている。しかもそれらは私について証ししているのである[8]」。そしてそれらの聖書による証は、単に預言者の言葉の中にだけ貯えられてあるのではない。行われたことの中にも知識は書き込まれているのである[9]。この知識こそ偉大な預言者[10]が次の行いを視野に入れるとき、全き知識を以て[11]、ヘブライ人たちの民族に言い残したものなのである[12]。すなわち、(小羊の)捕獲と保護{そして奉献}、更に屠りと火を通した食事、身繕いの仕方と犠牲にされた物の消費に臨んでの迅速さ、また残った物の焼却および律法に定められている掟が、彼らの「子孫」そして「永遠に至るまで」、「彼らと彼らの息子たちのための記念として[13]」実行されることを視野に入れたときである。実際、彼は、(それらの行事が)歴史的叙述[14]だけに結び付いているばかりでなく、{霊的な}上昇的解釈[15]にも結び付いていることを認めていたのである。(聖書に)こう書かれている通りである。すなわち、「私たちは霊的なことを霊的なことに結び合わせ、比較検討しています[16]」と。  

 そこで私は、神の恵みによって[17]霊的な考えを提示することに努め、キリストにおいて成し遂げられた神の効果的な救いが学識愛好者たちに[18]明らかとなるようにしよう。(聖書に)こう書かれている通りである。すなわち、「彼を受け入れた人に、/

 

41 [III,9]

(み言葉は)神の子となる力を与えた。彼らは血によってではなく、肉の意思によってでもなく、男の意思によってでもなく、神によって生まれたのである[19]」と。実際、キリストにおいて(神の)子とすることは[20]、私たちにとってそれ程までに大きな救いの力となった。つまり私たちは、血と男女の意思とによって生まれたのではなく[21](キリストが)まさにご自分の兄弟であると告白して下さる者たちとなったのである。彼は、「私は、あなたの名前を私の兄弟たちに告げ知らせよう[22]」と言われている。



[1] 第二部は第一部に比べてかなり短い。それはオリゲネスが、過越を受難と見なす解釈を斥けるために、既に過越の霊的解釈を行ったため、以後に取り上げるべき霊的解釈の題材に乏しくなったからであろう。そこで第二部ではオリゲネスは、既に述べたことを簡単に繰り返し、最後にキリストが成し遂げ、またいまだに成し遂げている過越(復活と昇天)に論及して第二部を終わる。第二部後半は、後半部は、圧巻である。

[2] h` iverougi,a kai. i`eroqusi,a

[3] Cf.Rm.2,8.

[4] Cf.Rm.3,5.

[5] musthriwdw/j

[6] eivj tou.j kaq~h`ma/j sumplhrwtikou.j cro,nouj

[7] 1 Co.10,11.

[8] Jn.5,39.

[9] 同じ考えはエイレナイオスにも見られる。Cf.Adu.haer.IV,20,12.

[10] これはモーセである。『申命記』34,10には、「イスラエルには、主が顔と顔を合わせて選び出されたモーセのような預言者は、再び現れなかった」と言われている。

[11] evpisthmonikw/j

[12] Cf.Hom.Nb.V,1(GCS VII, 26, 2-5.) :「疑いもなくモーセは、真の割礼が何であるか、真の過越が何であるか、真の新月祭と真の安息日を理解していました。そして真の新月祭が何であるか、真の安息日が何であるかを知っていました」。

[13] Ex.12,14,24.

[14] ivstori,a

[15] a,nagwgh,

[16] 1 Co.2,13.

[17] Cf.Hom.Ez.VI,4(GCS VIII, 382,3s.):「目下の個所を説明するとき、私は神の恵みが私に与えてくださるものを通してお話するのだと弁えております」。

[18] toi/j filoma,qe,si

[19] Jn.1,12-13.

[20] h` ga.r evn Cristw/| ui`oqesi,a;cf.Ep.1,5.

[21] キリストにおける誕生(再生)は、洗礼のときに実現する。Cf.Jn.3,5.

[22] He.2,12;Ps.21,23.