パスカの小羊・キリストの予型

 

 事実、彼らのために、「しみのない羊[1]」のようなキリストご自身の御血を通して、救いがもたらされた。なぜなら(聖書にはこう書かれている)からである。  

 「彼は、小羊のように屠殺者のところに連れて行かれた。その毛を刈る者の前に物言わぬ羊のように、彼は口を開かなかった。彼の生い立ちを誰が物語るだろうか。彼の生命は地から取り除かれ、彼の民の違反の故にその死へと導かれたのである。そして私は、彼の死と引き換えに貧しい者たちを許し、彼の葬りと引き換えに富める者たちを許そう。なぜなら、彼は罪を犯したこともなく、またその口には偽りが見出だされなかったからだ[2]」。確かに(自分の)罪によって彼の死がもたらされたのではない。むしろ「彼は自ら私たちの罪を荷ない、私たちのために苦しみを受け[3]」「彼の傷によって私たちはみな癒された[4]」。実際、ちょうど/

 

42 [III,10]

かの人たちが[5]「雄の小羊[6]」の中に予型されていたのと同様に、私たちも「羊のような[7]」人間の内に予型されていた。ちょうど彼らが「完全な(小羊)[8]」の中に予型されていたのと同様に、私たちも御父の御意思を全うされた方の[9]「満ち満ちた豊かさ[10]」の内に予型されていた。ちょうど彼らが「一年の小羊[11]」の中に予型されていたのと同様に、私たちも「諸々の世の終わり[12]」の内に予型されていた。――と言うのは、一年が諸々の月を成就するものであるのと同様に、彼ご自身も律法と預言者たち(の教え)とを成就する方[13]だからである――。ちょうど彼らが「しみのない(小羊)[14]」の中に予型されていたのと同様に、私たちもまた罪のない方の内に予型されていた。彼らが「最初の月[15]」の中に予型されていたのと同様に、私たちも{いわば}「全被造物の元[16]」の内に予型されていた。すべてのものはその元の内に造られたのである。彼らが(その月の)「十日[17]」の中に予型されていたのと同様に、私たちも(神の)唯一支配の満ち満ちた豊かさの中に[18]予型されていた。そして(同じ月の)「十四日までに[19]」、すなわち第二週(が終わる)までにという言葉は、第一の創造すなわち不可視的な創造から第二の可視的な創造にまで及んだ二つの週の休息を意味している[20]。更に、「イスラエルの子らの全会衆は、夕暮にそれを殺さなければならない[21]」。(イスラエルの子らの全会衆とは)神を見る人の子ら[22]、すなわち神の力の子らの全会衆のことであり、「夕暮に」とは「諸々の世の終わり」にということである。そして彼らは「その(小羊の)血で(家々の)戸口の二本の柱と鴨居」を塗らなければならない[23]。鴨居とはすべての羊の頭の上にあるものであり、柱とは境界である。つまりその境界を通して/

 

43 [III,11]

(諸々の情念が)彼らの中に入ってきたり、出ていったりする。――ある諸情念は彼らの中に入り込み、またある諸情念は彼らの中から出て行くのである――。それらは彼らの中に居住するとき、その境界の内側に含まれている[24]



[1] Is.53,7;Lv.23,12.

[2] Is.53,7-9;Act.8,32,33.;1 P.2,22.

[3] ovduna/tai

[4] Is.53,4-5.

[5] ヘブライ人たち」のことである。

[6] Ex.12,5.

[7] Is.53,7.

[8] Ex.12,5.

[9] Cf.Jn.4,34.

[10] Jn.1,16.

[11] Ex.12,5.

[12] 1 Co.10,11.

[13] Cf.Mt.5,17.

[14] Ex.12,5.

[15] Lv.23,5.

[16] Ap.3,14 et Col.15.

[17] Ex.12,3.

[18] evn plhrw,mati monarci,aj;cf. Col.2,9.

[19] Ex.12,6.

[20] オリゲネスはこうした二段階の創造を、アレクサンドリア時代から想定していた。特に次を参照せよ。De Princ.II,9,2(SC 252,354:邦訳172) et H.Crouzel, sj., Origène et Plotin, Paris, 1991, p.137s.

[21] Ex.12,6.

[22]「神を見る人」は、オリゲネスがしばしば採用する「イスラエル」という名称の語源的解釈である。Cf.eg.Hom.Jr.IX,2(SC 232, 380);ibid.,XIII,2(SC 238, 56) et Philon, Somm.II,§250.また、「神の力」は天使たちを示す。Cf.eg.Comm.Jn.VI, 54(36),282(邦訳251); XIII,35, 227(邦訳263);C.Celse V.27(SC 147, 80 ); ibid.,32(SC 147,94).

[23] Ex.12,7.

[24]鴨居は理性であり、戸口の柱は、情欲の往来する感覚をなぞらえているのであろう。Cf.Sel.Ex.12.22(PG 12.285A).