――ユダヤ人たちの無知――

 確かに、この(小羊の)屠りは、「彼らが自分で何をしているかわからない[1]」が故に、彼らによって無知の内に行われた。――またそれ故に、そのことは彼らに「許され[2]」たのである――。実際、「一人の人間が民全体に代わって死ぬこと[3]」は素晴らしいことであった。と言うのは、「預言者が/

 

44 [III,12]

エルサレムの外で[4]」死ぬこと、すなわち正義と平和[5]に基づいて生活しようと努力する人たちの外で死ぬことは許されていないからである。



[1] Lc.23,34.

[2] Lc.23,34.

[3] Jn.18,14.

[4] Lc.13,33.

[5]オリゲネスがここで、「平和」と「正義」の語を使用したのは、エルサレムの語源的解釈すなわち「平和を見る」(Hom.Jr.XIII,2:SC 238,56)と『イザヤ書』54,14 (七十人訳):「お前の子どもたちは大いなる平和の内に住み、お前は正義の内に立てられる」との連想によるものであろう。