お前たちに対して

 

 したがって、完全な生活と完全な愛の中に/

 

5 [I,5]

入るべきである。それは、人が依然として現在の世界にいながらも、「この月はお前にとって諸々の月の元である」という言葉を聞くことが出来るようになるためである。実際、この言葉は神によって民全体に言われたものではなく、ただモーセとアロンに対してだけ言われているのである。確かに、「そして神は民に向かって、『この月はお前たちにとって諸々の月の元であり、お前たちにとって一年の諸々の月の中の最初の月である』と言われた」と書かれてはいない。むしろ次のように書かれている。「主はエジプトの地でモーセとアロンに向かってお語りになり、こう言われた。『この月はお前たちにとって諸々の月の元であり、お前たちにとって一年の諸々の月の中の最初の月である』と」。そして次にこう付け加えているのである。「イスラエルの子らの全会衆に向かってこう言って話せ。『この月の十日に、おのおの小羊を取りなさい』と」。実際、神が「イスラエルの子らの全会衆に向かってこう言って話せ。『この月はお前たちにとって諸々の月の元である』」と付け加えられたとすれば、神はモーセとアロンと民全体に対して分け隔てなくこのことを言われただろう。ところがモーセとアロンに対して「この月はお前たちにとって諸々の月の元であり、お前たちにとって一年の諸々の月の中の最初の月である」と言われているのであり、しかも(モーセは)このことを民に話すように命じられているのではなく、「その月の十日に/

 

6 [I,6]

父の家ごとに小羊を取りなさい」ということを言うように命じられているのである。したがって諸々の月の元というあの月は、当時、民全体のためにあったのではなく、モーセとアロンのためにだけあったのは明らかである。なぜならそれは、モーセとアロンに対して言われたからである。実際、「この月はお前にとって諸々の月の元であり、お前にとって一年の諸々の月の中の最初の月である」という言葉を聞くことが出来るようになるために、人はかつての自分とはほとんど別の人になったということ、このことを把握するには、被造物とこの世界とに完全に別れを告げねばならないのである。事実、完全な人は別の誕生[1]の元を有し、以前とは別の人になるということを、使徒は次のように言って私たちに教えている。彼は言う。「私たちの(内なる)古い人間はキリストと共に十字架につけられました[2]」。更に、「私たちが(キリストと共に)死んだのなら、私たちはキリストと共に生きるでしょう[3]」。そして彼は自分自身について腹蔵なくこう言っているのである。すなわち、「生きているのは、もはや私ではなく、キリストこそ私の内に生きておられるのです[4]」と。このような人たちが、依然として(この)世界の中にいながら、最初の月と諸々の月の元が彼らに訪れたのだという言葉を聞くことの出来る人たちなのである。ところで、完全な人は、以前の自分とは別の人になると、その時、神から約束と祝福とを受けるということを私たちは考えて見ることにしよう。(神から)約束を受けたのはアブラムではなく、アブラハムであり[5]、ヤコブが/

 

7 [I,7]

祝福を受けたのではなく、イスラエルが祝福を受けた[6]。またシモンが救い主の最初の弟子になったのではなく、ペテロがなったのであり、ヤコブとヨハネは、ボアネルゲ、すなわち雷の子らになって(初めて)、使徒として使わされた[7](と聖書に言われている)。要するに、(聖書の)あらゆる箇所を調べてみると、私たちは何かしらそういった類のことが聖書の中に示されているのを見出だすのである。すなわち完成の域に達した人たちは、もやは以前の自分ではなくなり、以前とは別の人になって、別の名前を手に入れる、ということである。



[1]本論第4節を参照せよ。

[2] Rm.6,6;cf.Ga.2,19.

[3] 2 Tim.2,11.

[4] Ga.2,20.

[5] Gn.17,15;また、フランシスコ会訳聖書『創世記』中央出版社198693頁、注(4)を参照せよ。

[6] Gn.32,28;またフランシスコ会訳聖書『創世記』中央出版社1986185頁、注(9)を参照せよ。

[7] Mc.3,16-17.