元と最初

 このようにして諸々の月の元が彼らに訪れたのである。しかし次のことを検討してみるのも価値あることだろう。すなわち、[ ・・・ 元と最初は同じことを言っているのかどうか ・・・ ]。そうではなくて、「この月はお前たちにとって諸々の月の元であり、一年の諸々の月の中の最初の月である」となっていることについてである。実際、神は、「この月はお前たちにとって諸々の月と一年の元である」、あるいは「この月はお前たちにとって一年の最初の月である」とおっしゃることが出来たのである。しかし(両者の言葉には)何らかの違いがあったので、神はその月が元であり、それはまた最初であると言われているのである。では、どうやって私たちは、前進すべき道に歩を進め/

 

8 [I,8]

次のことの把握に行き着くのであろうか――もしも私たちが聖書の中に貯えられている類似の表現によって導かれるのでなければ。すなわち元(という言葉)と最初(という言葉)とは、互いに相照応して同じ意味で言われたのか、それともそれぞれ違った意味で用いられたのかどうか、ということである。宇宙創造(の物語)においては、先ずその導入部で直ちに、「元において神は天と地とを造られた[1]」と言われている。実際、聖書は、最初と元の違いを知っていたので、「最初に(神は)造られた」とは言っていないのである。確かに、宇宙()創造は、創造主を元として有しているが、それにもかかわらずそれは創造主によって最初のものとして造られたのではない。なぜなら、創造主は[それに先立ってたくさんのものをお造りになられたからである[2]。この(宇宙の)創造が最初(という性格を)有したのでわけではない]。創造されたものは、たとえそれが論理的に最初のものであれ、二番目のものであれ、元を有している。実際、最初のものは、ただ先行するものが何もない場合にのみ、厳密な意味で言われるのである。しかし元は、始まりを有するものを、たとえそれが最後に造られたものであっても、それを指示しているのである。まさしく最初であるもの、それは元でもある。しかし元であるものは、また最初であるというわけではないのである。

 しかし私たちが言われていることを一層よく見ることが出来るようになるために、(聖書で)意味されている事柄へと私たちを導くようなある例を取り上げてみることにしよう。もしもある建築家が/

 

9 [I,9]

 かつて一度も家を建築したことがなかったとして、(家の)建築に取りかかる場合、私たちはその家に最初と元とを見出だすだろう。実際、彼はこれまで一度も(家を)建築したことがなかったのであるから、彼が初めて(家を)建築するときには、彼はそのとき最初に(家を)建築するのである。それと言うのは、彼はこの家の以前には別の家を建築したことがないからである。しかしながら彼が建築する家、それがたとえ最初のものであっても、それは最初のものであると共に、元をも有するのである。こうして、元(という言葉)は、基礎的創設という意味で把握される。しかしそれは最初を持つ。なぜなら(その建築家は)、その家を最初に建築するからである。他方、彼がそのときその家を二番目の家あるいは三番目の家として[建築する場合には、その家は、元から由来して始まるという理由で、元を有している]。しかしその家は最初(という性格)を持たない。むしろその家以前に建築された家が、まさしく最初に建築されたという理由で、最初(という性格)を持つのである。  

 更に一層明瞭に理解するために、私たちは別の例を取り上げてみることにしよう。仮にたくさんの木が互いに隣り合って横たわっているとする。その場合私たちは、すべての木に関して元を見出だすだろう。なぜなら各々の木は、一番最後の木に至るまで、固有の元を有しているからである。しかし一番最初に横たわっている木だけが最初(という性格)を有するのである。その木はそれが置かれている位置に関して最初であるが故に、まさしく最初(という性格)

 

10 [I,10]

と固有の元とを持つのである。しかしそれに続く木は最初(という性格)を奪われているが、各々それ自身の元を有しているのである。  

 こうして、元は必ずしも常に最初(という性格)を持つものではないが、最初は常に元を持つのであるから、神は、この月が彼らにとって諸々の月の元であり、一年の諸々の月の中の最初の月だと言われているのである。更に(これまで)述べられてきたことは空言であると思われないようにするために、私たちは救い主ご自身を証人としてお招きすることにしよう。救い主は元と最初には区別があることを私たちに教えておられる。すなわち救い主は、ヨハネに帰されている黙示録の中で、「私はアルファであり、オメガである。最初であり最後である。元であり終わりである[3]」と言われているのである。[実際、アルファとオメガとに大きな区別があり、元が終わりとは異なるものであるのと同様に、最初と最後とは同じものではない]。そして元と最初とはそれぞれ別の意味で捉えられているのが示されているのである。しかし最初には必然的に元も属しているということが示されていたのであるから、救い主はここで、ご自分が最初であることに応じて、元であることも主張しておられるのである。事実、救い主は、「私は最初であり最後である。元であり終わりである」と言われている。すなわち救い主は、すべての被造物の最初の子である限りで最初/

 

11 [I,11]

であり、知恵である限りで元なのである。実際、こういう意味で知恵は、ソロモンを通して言われている。「主はその諸々の道の元として私を造られた[4]」と。そしてたぶんヨハネもこのことを知っていたのでご福音書の中で次のようにして(イエズスの事績の記述を)始めたのであろう。(こう書いてある。すなわち)「元の内にみ言葉があった。み言葉は神と共にあった。み言葉は神であった。このみ言葉は元の内に神と共にあった[5]」。確かにヨハネは、元を知恵の意味で理解しており、またみ言葉は元ではなく、元の内にあると言っているのである。事実、御父のみもとに御子が(ご自分に)固有の栄光の内にいますときには[6]、御子が最初であるとは言われていない。なぜなら最初は御父にだけ属しているからである。実際、神だけが生まれざる方であって、御子は最初ではない。・・・ [原文約六行毀損] ・・・ そして御子が万物を賢明に配慮する[限りで]、彼は元なのである。それ故にまさしく彼が(この)世界に来られたとき、ヨハネは、「み言葉は最初であった」と言わずに、「元の内にみ言葉があった」と言っているのである。

 イスラエルとなったヤコブも、ルベンを祝福しながら次のように言って、この最初と元の区別に言及している。すなわち、「ルベンは私の最初の子、私の勢い、私の子らの元[7]」と。確かに、彼は次のことを知っていたのである。/

 

12 [I,12]

すなわちルベンが最初の子であり、自分の子供たちの元であるということをである。更に聖書に従えばそれに類することがたくさん示されるだろう。もっともそれらは、(聖書を)片手間に読む人たちにとっては、同じもののように見えるだろう。けれども(聖書を)入念に注意深く読む人たちにとっては区別されるものであることが証明されるのである。実際、(聖書が)「愚かな者も無思慮な者も、同じく滅びるであろう[8]」と言うとすれば、・・・ [原文約4行欠落] ・・・ 使徒は次のように言うとき、[同じ区別を]指示している。・・・ [原文約7行欠落] ・・・



[1] Gn.1,1.

[2] オリゲネスは明らかにこの世の創造以前に、天使や霊、そしておそらくこの世の前に存在していたかもしれないと彼が想定する別の数々の代が創造されたことを念頭に置いている。Cf.eg.De Princ.II,5,2(SC 268, 220s.:邦訳・小高毅訳、創文社1984261頁以下).

[3] Ap.22,13.

[4] Pr.8,22.

[5] Jn.1,1-2.

[6] Cf.Jn.17,5;1,14.

[7] Gn.49,3.

[8] Ps.48,11.