パスカはご受難の予型ではない

・・・ 小羊は聖なる人たちないしはナジル人たち[1]によって屠られた。ところが救い主は無法者たちや罪人たちによって屠られた。そしてもしもパスカの小羊が聖なる人たちによって屠られたのであれば、また使徒が、「しかも私たちのパスカ、キリストは屠られたのです[2]」と言ったのであれば、このキリストはパスカの予型に従って屠られたのである。もちろん彼は聖なる人たちによって屠られたのではない。/

 

13 [I,13]

 そして(そうであれば)パスカはまさしくキリストの予型なのであって、当然、キリストのご受難などではないのである。  

 実際、私たちは、司祭に祝聖された者であれ、あるいは、司祭たちと同様に(犠牲を)捧げる者であれ、(いずれの場合にも)私たちは真の小羊を屠らねばならない。そして私たちは、その肉を(火に)焼いて食べねばならないのである[3]。しかしこれがもしも救い主のご受難のときに行われたものでないとすれば、その場合、彼のご受難はパスカの対型ではなく、パスカは、私たちによって屠られたキリストご自身の予型になるのである。事実、私たちの各々は、先ず最初に小羊を取り、次に(それを)奉納し[4]、屠っている。そしてこのようにして、(それを火に)焼いて食べ、食べてから、朝までにそのうちの何ものも残さない[5]。次いで、エジプトを脱出したいまや、種なしパンを祝うのである[6]。しかもパスカは精神的なものであって、この感覚的なパスカではないことに関して、(救い主)ご自身がこう言っておられる。「もしもあなた方が私の肉を食べ、私の血を飲まなければ、あなた方は自分自身の中に生命を持たない[7]」と。してみると私たちは、感覚的に彼の肉を食べ、彼の血を飲まねばならないのだろうか。しかし(救い主が)もしもこれを精神的な意味で言われているのであれば、パスカは精神的なものであって、感覚的なものではない。

 更に私たちは次のことを考察してみよう。/

 

14 [I,14]

 すなわち、パスカ(の指令)において言われたことに、救い主によって言われたことが従っているのかどうか、ということである。実際、かの書ではパスカ(の小羊)を食べなかった者は自分の民から断たれると言われている[8]のと同じように、今度は真の小羊も、ご自分の肉を食べない者は生命を持たないと言われているのである[9]。かの書では破壊者が小羊を食べた者に手を下すことが出来なかったのと同じように[10]、いまや真の小羊を食べた者は破壊者をかわすのである[11][以下原文約八行甚だしく毀損] ・・・ しかしもしも誰かが、・・・ の故に疑うのであれば ・・・ 救い主が十字架に付けられたこと ・・・、それは、パスカがご受難の予型ではなく、キリストご自身の予型であると、私たちが先に述べた通りである[12]。実際、救い主は次のように言われている。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」、モーセによって木の棒に掛けられた蛇の予型に従って[13]「人間の子も上げられねばならない[14]」と。救い主は(これによって)、棒の上に掛けられた限りでの救い主のご受難以外の何ものをも指示しておられない。明らかに、ご受難は蛇の予型に従って理解されねばならないのであって、/

 

15 [I,15]

パスカの予型に従って理解されてはならないのである。実際、もしも救い主が、モーセがエジプトでパスカを行ったのと同じように、キリストは苦しみを受けねばならないと言われたとすれば、ご受難がパスカの対型として行われたことに異論の余地はなかっただろう。しかし救い主がご自分の受難を棒の上に掛けられた蛇にたとえておられるからには、彼のご受難は、これ以外の何ものの対型でもないのである。そして[以下原文約14行毀損] ・・・ たぶんキリストは[すべての人のために]屠られる[のではないだろう]。またすべての人のために十字架に付けられたのでもないだろう。むしろそれは次のように言うことが出来る人たちのためだろう。すなわち、「世界は私に対して十字架に付けられ、私も世界に対して十字架に付けられているのです[15]」。またこう言うことが出来る人たちのためであろう。「(キリストは)支配の霊や権威の霊の力を剥ぎ取り、棒の上で勝利を得て、(彼らを)さらし者になさいました[16]」。更に、こう言える人たちのためだろう。すなわち、「しかし私には/

 

16 [I,16]

私たちの主イエズス・キリストの十字架の他に誇りとするものが断じてあってはなりません。なぜなら(この)イエズス・キリストの十字架によって世界は私に対して十字架に付けられ、私も世界に対して十字架に付けられているからです[17]」。  

 しかしいまや引き続く(聖書の)言葉に向かうことにしよう。  

 「イスラエルの子らの全会衆に向かって次のように話せ、『この月の十日に、おのおの父の家ごとに小羊を、(すなわち)おのおの家ごとに小羊を取れ』と[18]」。



[1] 「聖なる人たち」は、過越の祭りを祝ってヨルダン川を渡る前に、割礼によって清められたユダヤ人を表している(Cf.Jos.5.1s et Hom.Jos.VI,1: GCS VIII, 321 - 324)

[2] 1 Co.5,7.

[3] Cf.Ex.12,8.

[4] この祭儀規定は、『出エジプト記』には述べられていない。なお本論第16節にも同様の規定が見られる。

[5] Cf.Ex.12,3.8-10.

[6] Cf.Ex.13,6-8.

[7] Cf.Jn.6,53.

[8] Cf.Nb.9,13.

[9] Cf.Jn.6,53.

[10] Cf.Ex.12,13;He.11,28.

[11] オリゲネスは後で、キリストである過越の生け贄の奉献の仕方を詳しく語る。本論より前の彼の著作『ヨハネによる福音註解』X.17(13): GCS 10(IV)187.22-189.9では、オリゲネスは、ここで言及される『ヨハネ』6,53を解釈して、感謝の祭儀での肉の拝領をみ言葉の霊的な拝領の意味に取っている。このみ言葉の霊的な拝領は、民から絶たれないため(Nb.9,13)、破壊者によって滅ぼされないために(He.11,28)食されねばならない過越の食事の真の成就と考えられている。しかしこのようなオリゲネスの霊的解釈は、感謝の祭儀の秘跡的な拝領の可能性を排除するものではない。本論で斥けられているのは、粗悪な字義的解釈(カニバリスム)である。なお、オリゲネスの言う霊的な意味には、今日の聖書解釈学で文字通りの意味に分類される暗喩的な意味が含まれている。したがって秘跡としての感謝の祭儀の可能性は、オリゲネスの霊的な意味の中に保たれている。

[12] 本論第13節を参照せよ。

[13] Nb.21,8-9; cf.Dt.21,22-23;『民数記』21,8-9の本文では、モーセが青銅の蛇を旗竿の先に掲げたとなっている。オリゲネスはこの個所を、『申命記』21,23の「木に掛けられた者は、神に呪われている」に結び付けて、蛇に予型論的意味与えている。Cf. G.Q.Reijiners, Das Wort von Kreuz, Kreuzes- und Erlösungs-symbolik bei Origenes, Köln, 1983, p.8-10.

[14] Jn.3,14;また次を参照せよ。フランシスコ会訳『新約聖書』中央出版社1987301頁、注(7):「民21,4-9,16,5-12参照。イスラエル人は、モーセが造り、棒の上に掛けた青銅の蛇を仰いでいやされた。イエズスもこの青銅の蛇のように、十字架に付けられて、すべての人の救いのもととなった」。

[15] Ga.6,14.

[16] Cf.Col.2,15;聖書本文では文脈上、「その(十字架の)上で勝利を得て」ということになっている。オリゲネスは『申命記』21,23(Ga.3,13)に引かれて、代名詞「その」を「棒」に置き換えている。このような引用方法はオリゲネスではありふれている。

[17] Ga.6,14.

[18] Ex.12,3.