教父学メモ

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増補改訂中

朱門岩夫

最終更新日22/06/12


 

教父学:Patristique

 教父たちの著作の文学的研究を課題とする学問。今日もっとも一般的な言葉である。

 

教父論:Patrologie

 教父たちの著作の教義的研究を課題とする学問。日本語の定訳はない。教父論という訳語は、私の発案。

 

伝統

 伝統とは、過去のキリスト教的遺産のすべてが押し込まれた押し入れではない。それは、常に新しい様相を呈する歴史を貫く信仰の遺産の伝承である。そのギリシア語の語源(パラドシス)によれば、伝統とはまさしく伝承を意味する。それは何よりも、使徒たちが伝えたキリストの教えの伝承である。初期のキリスト者たちは、殉教の血によってこの伝統を彩った。

 二世紀に入ると、エイレナイオスは、グノーシス主義者たちが自分たちの創始者たちに結び付けてきた様々な伝統の多様性に対して、教会に中で受け入れられた使徒的伝承の唯一性を主張した。彼が使徒的伝承に与えた定義は、第一に、使徒よりの教会の中で絶えることのなかった司教の継承、第二に信仰規則と聖書解釈との一致であった。

 四世紀になると、キリスト論と三位一体論に関する異端の顕在化と共に、伝統概念は新たな展開を見せた。まず伝統という言葉は、聖書には直接含まれていないが、公会議によって受け入られた教えを指すようになった。

 アタナシオスとアウグスティヌスは、それぞれ、異教徒とペラギウス主義に対抗する目的で伝統に訴えた。聖書の他に、教父たちの教えが準拠されるべきものとして伝統の概念に加えられていった。ただし、教父たちの権威が聖書の権威に劣るのは言うまでもない。

 五世紀になると、レランスのヴィンセンチウスが、その『勧告』の中で、伝統の基準を定めた。それは、普遍性、古代性、一致である。彼は次のように書いている。「我々は、あらゆる所で、常に、すべての人々によって信じられてきたものを保持している」と。

 このようにして伝統概念は、時の流れの中で発展し、使徒よりの信仰を生き生きと保持し、キリスト者は伝統を通して、確実な信仰に達するのである。

 

感謝の祭儀

 その始めから感謝の祭儀は、最後の晩餐の挙行を中心として行われてきた。受洗者たちは、特別な性質を持つ食事、すなわち「主の食事」に招かれる。そしてこの食事は、他の食事の中でしばしば行われた。それは、聖木曜日にキリストの言葉を再び言いながら、パンを割き、杯を奉納することによって特徴づけられる。カタコンベに描かれた最後の晩餐の絵に、その名残が見られる。しかし感謝の祭儀の最も古い証言は、『ディダケー』すなわち『十二使徒の教え』の中に見出される。そこにはこう書かれている。「あなたがたは主の日に集まりなさい。そして先ず、これから行われるあなたがたの生け贄が汚されないように、あなたがたの罪を告白しなさい。それをした後、パンを割き、感謝の祈りを捧げなさい。仲間ともめ事を起こしている人を、当事者と和解するまであなたがたの集まりに加えてはならない。さもなければ、あなたがたの生け贄は汚されることだろう」。

 その数年後に、ユスティノスは、その『第一護教書』の中で、感謝の祭儀についてはるかに内容の富んだ報告をし、その展開を記述している。彼は次のように言っている。「太陽の日と呼ばれる日に、町にいようと、田舎にいようと、すべての人がひと所に集まります。人々は、時間の許す限りで、使徒たちを記念する書物と預言者たちの書物の朗読に耳を傾けます。朗読が終わりますと、司式する人は、み言葉を取り上げ、彼らに美しいみ言葉の教えを見習うように勧めます。次に、私たちは皆、立ち上がり、声を大にして祈りを捧げます。そして既に述べましたように、祈りが終わりますと、パンとぶどう酒と水が運ばれてきます。司式する人は、力の限りを尽くして、祈りと感謝を天に昇らせ、全会衆は、アーメンと言ってそれに答えます。それから、聖別された食べ物が一人ひとりに分配されます。欠席している人には、助祭たちがそれを持っていきます」(第一護教書ch.67)。

 ユスティノスの記述には、ミサ聖祭にとって重要な二つの要素がはっきり現れている。先ず、朗読と説教を伴ったみ言葉の祭儀、次に、祈りと共に始まる厳密な意味での感謝の祭儀である。

 三世紀になると、ローマのヒッポリュトスが、使徒的伝承における感謝の祈りの正確な文面を残した。

 感謝の祭儀の発展に教父たちが大いに貢献したのは言うまでもない。

 

秘蹟

 テルトゥリアヌスが秘蹟(sacramentum)という言葉を考案したわけではないが、彼はその言葉を根本的に新たにした。

 その言葉がどのようにして、軍役の誓いという異教的な意味から、神秘、隠された真理というキリスト教的な意味に移ったかは、わからない。おそらく秘蹟という言葉は、ギリシア語のミュステーリオン(mysterion)の翻訳であったに違いない。

 語彙の大家であったテルトゥリアヌスは、その秘蹟という言葉の二つの意味を上手に使って、洗礼を信仰の秘蹟と定義している。すなわちその秘蹟とは、キリストの軍隊に加わる誓いであり、洗礼志願者がその手ほどきを受けた隠された真理を表わしている。

 テルトゥリアヌスがキリスト教の秘蹟という言葉を使うとき、彼は、教会の真理、すなわち、神が隠された真理の総体を人類に伝えた啓示を指している。

 

信仰規則

 それは、キリスト教的真理の探究規則であり、信仰が内蔵する最小限の真理の提示である。またそれは、その内容において信仰の要点を述べた信仰宣言すなわち信教に近い。

 

信条・信教

 教父たちは、信仰告白の重要性を認識し、信教を異教世界におけるキリスト者のいわば身分証明書にした。信仰箇条は、信仰入門講座の最初に、洗礼志願者に渡される。そして洗礼志願者は、洗礼式の当日、信仰の根本的諸現実への同意を表明するために、与えられた信仰箇条を「返す」、すなわち朗読しなければならなかった。

 しかし、信教はいつ作られたのだろうか。始めの頃は、キリスト論と三位一体論に関する信仰告白があった。しかしエイレナイオス、テルトゥリアヌス、ローマのヒッポリュトス等によって、信教の要約である信仰規則の概念が現れた。ところで我々が今日、「使徒信教」と呼んでいるものを誤解しないようにしなければならない。使徒信教に含まれる信仰箇条の一つひとつは、十二使徒がペンテコステの後にそれぞれ作ったものだという伝説があるが、使徒信教は、もっと後の330年に溯る。それは、もともとフランスの南部で使われていたもので、ローマ教会がそれを採用した。

 私たちが毎日曜日に唱えているニカイア・コンスタンチノープル信教と呼ばれる信教のもう一つの形式は、上記の使徒信教よりもはるかに詳しい。この信教は、おん子とおん父の同一性に言及しているとはいえ、ニカイア公会議やコンスタンチノープル公会議に溯るものではなく、451年のカルケドン公会議で定められたものである。1014年には、Filioque (そしておん子)という言葉が付加された。その言葉は、聖霊がおん父とおん子とから発出することを述べたものであるが、正教会の兄弟たちはそれを受け入れていない。それでエキュメニズムの対話では、ニカイア・コンスタンチノープル信教よりも、使徒信教のほうが好まれている。

 

要理教育

 ローマ帝国がキリスト教を受け入れて以後、洗礼志願者の数はますます増え、彼らの教育が重要な問題になった。要理教育の幾つかの指針は、『ディダケー』、『バルナバの手紙』、『使徒憲章』などで、既に与えられている。しかし、洗礼要理の黄金時代を開いたのは、エルサレムのキュリロスである。彼は、まさにキリストの生きた地エルサレムで、『洗礼志願者のための要理教育』というみごとな教話を残した。キュリロスに続いたのは、ミラノのアンブロシウス、ヨハネ・クリュソストモス、カッパドキアの三教父、アウグスティヌス、モプスエスティアのテオドロス等である。

 たいてい四旬節とそれに続く聖週間に行われる要理教育を通して、司教たちは、洗礼志願者たちに、信仰の基本的な諸真理を説明し、彼らを神の民に導いた。洗礼志願者のそうした養成は、一人ひとりの学習差に応じて個別化され、要理教育者たちとの対話によって復活徹夜祭まで続けられた。

 エルサレムのキュリロスは、その第四要理教育の中で、神、キリスト、十字架、復活、昇天、聖霊、霊魂、信仰、永遠の生命について述べている。それらは、洗礼志願者が知らなければならないキリスト教の本質的な要素であり、更に掘り下げられうる。一般に、要理教育は、教義、倫理、秘蹟という三つの部門を持っている。信仰の神秘への手引きとしての要理教育は、当然、受洗者のための生涯教育へと発展する。

 

アウグスティヌスと歴史神学

 今日では、歴史哲学は我々になじみ深いが、アウグスティヌスが既に、その大著『神の国』で歴史神学を提示し、本質的に七つの時代を経て展開する救いの歴史を展開した。しかしそれは、彼の『告白』に既に予示されていた。彼はこの書の中で、時間は造られたもので始まりを持ち、ギリシア人たちが考えるように円環的なものではないと言っていた。時間は歴史を切り開き、その歴史は、神と人との契約の歴史である。『神の国』第XIV書28には次のような有名な一節が書かれている。「愛に満ちた神は、二つの町を作った。一つは、神をさげすみ自分を愛する町、すなわち地上の町。もう一つは、おのれ自身をさげすんで神を愛する町、すなわち天上の町。前者はみずからの内で栄光を受け、後者は神の内に栄光を受ける。前者はみずからの栄光を人間に要求する。しかし後者は、その良心を証する神にみずからの一層大きな栄光を見る」。

 アウグスティヌスは初めて、歴史の神秘は最終的に人間の自由の神秘によって説明されることを際立たせた人物である。人間の自由にとって、神は、歴史という壮大なシンフォニーを指揮する得も言えぬ音楽家である。

 

聖地の発見

 四世紀に入ると、キリスト教は、みずからに固有の聖地を求め始め、それらの聖地を異教の聖地に対置した。それは、諸伝承に即しながら、あるいは司教たちの着想によって、あるいは聖地とおぼしき場所の特性などによって実現された紛れもないキリスト教化の政策であった。こうして聖地に関する地理学が出来上がり、それは聖書にゆかりのある土地を特定し、それらの土地を巡礼地とした。

 

『砂漠の師父たちの言葉』

 砂漠の師父たちの箴言を集めたこの小冊子は、どうして今日でも関心を引いているのだろうか。この書は神学を提示しているのではない。それが提示しているのは智恵である。もちろん私たちは砂漠に住んでいるわけではないが、しかし、この書に載せられた師父たちの言葉は、砂漠の師父と弟子との生命の対話からほとばしり出て、私たちのもとに届き、私たちが心の中で抱く問題に数々に答えてくれる。福音書と共に、師父たちの言葉は、私たちにキリスト教生活にとって有益なものを教えてくれるのである。

 「ある人が院長アントニオスに尋ねた。『私は、神を喜ばせるために何を守るべきでしょうか』。長老は答えた。『私があなたに勧めることを守りなさい。あなたがどこにいようとも、常に神を目の前に置いておきなさい。あなたが何をなそうが、何を言おうが、聖書の言葉に従って振る舞いなさい。どこかに滞在したら、その地を簡単に離れてはいけない。この三つの戒めを守りなさい。そうすればあなたは救われる』と」。

 

キリスト教古典体系:Source Chretiennes

 既に400巻以上も出版している『キリスト教古典体系』は、フランスにおける教父学研究の底力をよく示している。それは、リヨンでのドミニコ会士たちとイエズス会士たちとの会合によって実現した。1932年来、ヴィクトール・フォントワノン神父は、ギリシア教父たちの文献に溯ってキリスト教文化を刷新することを願っていた。その彼の願いは、ジャン・ダニエル神父とアンリ・ド・リュバク神父の努力によって具体化した。ダニエルとド・リュバクは、ギリシア教父の著作の収集を行なったが、これは、フランスのドミニコ会が管理するセル出版(les Editions du Cerf)に引き継がれた。この古典体系は、ギリシア・ラテン教父の原文を収め――ただし訳だけしか記載していない巻も若干ある――、序文とフランス語訳、訳注を載せており、著作の普及と共に、学術的使用にも耐えられるように企図されている。