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 聖書の霊感について。どのようにそれを読み、解釈すべきか。聖書における不明瞭さの理由は何か。幾つかの箇所で字義的に不可能なことや不合理なことの理由は何か。

 我々がこれほど重要な諸問題について検討するために[2]、共通の諸観[3]念や見られた事柄の明証性に甘んじることなく、これまで述べてきた事柄の証明するものとして、神的なものと我々が信じている聖書――いわゆる旧約と言われるものと新約と呼ばれるもの――からの諸々の証言を付け加えたからには、今度は理性によって我々の信仰を強めることにしよう。とにかく我々は、聖書が神的なものであることについてまだ一度も論じていない。そこで、これらのことについても、概略的に幾らか検討し、神的な聖書に関して我々を動かしている事柄を提示してみることにしよう。先ずは、聖書そのものとそこに言明されている諸々の事柄とを使用するに先立って、モーセとイエス・キリストについて、すなわちヘブライ人たちの律法制定者とキリスト教に即した救いをもたらす諸々の教えの導入者とに焦点を合わせて、それらの事柄[4]を取り扱うべきである。

 さて、ギリシア人たちの内にも非ギリシア人たちの内にも、実に多くの律法制定者がおり、真理を約束する諸々の教説を公言する多くの教師たちがいる。しかし我々は、律法制定者の誰一人として、自分の言葉を受け入れる熱意を他の諸国民の内に生じさせることができなかったのを知っている。また、真理に関して哲学をしていると公言する人たちは、もっともらしい論理的な証明を伴ったたいそうな構想を掲げたが、誰一人として、自分にとって真理であると思われるものを様々な国民の内にも、あるいは一つの国民の相応数の人々の内にも、もたらすことができなかった。なるほど律法制定者たちにしても、立派に見える諸法律を、可能ならば、全人類に有効なものにしたいと願うことだろう。また教師たちにちしても、真理であると思われているものが居住地の至る所に広まるのを願うことだろう。しかし異なる諸言語や諸国民に属する人たちに、諸々の法律の遵守や諸々の学説の受容を勧めることはできないため、彼らはそもそもの初めからそうしようとはしなかった。なぜならそのようなことが彼らにとって可能であると考えるほど、彼らは愚かでなかったからである。ギリシアや非ギリシアの如何を問わず、我々の居住地には、モーセの律法の遵守とイエス・キリストの教えの学習のために、祖父伝来の諸々の法律や信じられていた神々を捨てた無数の求道者たち[5]がいる。そればかりか、モーセの律法に身を託した人たちは、諸々の偶像を崇拝する人たちによって憎まれ、イエス・キリストの教えを受け入れた者たちは、憎まれることに加えて、死の判決の受ける危険を冒しているのである。



[1] 『フィロカリア』第1章の大部分は、ルフィヌスのラテン語訳でしか全容が分からない『原理論』第4巻からのかなりまとまった引用である。

[2] 「これほど重要な諸問題」:『原理論』第4巻の直前、すなわち第3巻第6章で述べられた事柄を指すと思われる。

[3] 「共通観念」(koinai. e;nniai):認識の基礎をなす普遍的知識を指す。それは元来、ストア派の用語であるが、オリゲネスは、プラトン主義的に理解して、生得的な観念とみている。これは彼の霊魂論からして当然である。「見られた事柄の明証性」(evna,rgeia tw/n blepome,nwn)は、経験的知識を指す。

[4] 「それらの事柄」とは、聖書が神的なものであるか、すなわち聖書が霊感を受けたものであるか、という問題を指す。

[5] zhlotai,厳密に訳すと「競争者」あるいは「熱心者」ということになろう。洗礼志願者だけを指すわけではない。