10 では、我々の誰もが数々の謎と曖昧な言葉に満たされているのを知っている諸々の預言については何と言うべきだろうか。また我々が諸々の福音に向かう場合も、それらの正確な意味は、キリストの意図する意味であるかには[1]、次のように言う人に与えられた恵みを必要としている。すなわち「私たちは、キリストの思いを持っている[2]」。「それによって私たちは、神によって私たちに与えられた数々の恵みを知ることができる。そして私たちは、人間的な知恵の教える言葉によらず、霊の教える言葉によってそれらの恵みを語る[3]」とある。ヨハネに啓示された諸々の事柄についても、それらを読む人の誰が、書かれた事柄を理解できない人にも明瞭に察知される言語を絶した数々の神秘[4]が隠されていることに驚かないだろうか。さらに使徒たちの諸々の書簡についても、言葉の吟味を心得ている人たちの誰が、それらは明瞭であり容易に理解されると思うだろうか。なぜなら使徒たち書簡にも、崇高できわめて多くの意味への幾らかの手がかりを、天井の小穴を通すかのように与える箇所が無数にあるからである。それゆえそれらの諸書がそのとおりのものであり、無数の人々が誤りに陥っているとすれば、(聖書の)読書において、救い主が律法学者たちの許にあると言っている知識の鍵[5]を必要とする事柄を理解できると安易に主張するのは無難なことではない。そしてキリストの到来以前に彼ら律法学者たちの許に真理があったことを認めない人たちは[6]、答えるがよろしい。彼らの言うところによれば、律法学者たちは知識の門外不出の完璧な神秘の数々[7]を含む書物を持っていないとされるが、どうして知識の鍵が、我らの主なるイエス・キリストによって律法学者たちの許にあると言われたのか[8]。実際、聖書には次のように書いてある。「災いかな、あなた方、律法学者たちは。あなた方は知識の鍵を取り上げておきながら、みずから入らないばかりか、入ろうとする人たちを妨げてきたからである[9]」と。



[1] o` avkribh.j nou/j( a[te nou/j w;n Cristou/ ;直訳は、「正確な意味は、キリストの思いであるからには」。nou/jには、思い、理解、意図などの意味がある。しかしこれがオリゲネスの聖書解釈の根本的な指針をなす。諸々の預言をも含むすべての聖書の語句は、諸教会に伝わる使徒的伝承の枠内で、「キリストの思い」に相応しく解釈されねばならないのである。そしてその思いは、霊からの恵みとして、それに相応しい人に与えられる。

[2] 1Co.2,16.

[3] 1Co.2,12-13.

[4] avpo,rrhta musth,ria: 「門外不出の神秘の数々」とも訳すことができるが、オリゲネスは秘教主義を採らない(Com.Jn.II,28(23), 171; Com.Mt. XIV, 12; Hom.Jos.XXIII,4)。キリストの教えは万人に開かれているからである。この言葉は、グノーシス主義への当て擦りである。

[5] h` klei,j th/j gnw,sewj:この知識(グノーシス)は、グノーシス主義の偽グノーシスに対比され得るだろう。

[6] 旧約聖書を軽視するグノーシス主義者をさす。

[7] ta. avpo,rrhta th/j gnw,sewj kai. pantelh/ musth,ria; グノーシス主義者たちは、自説を権威付けるために、数々の秘教的な偽典を作成した。

[8] 律法学者たちは真理に開眼しなかったが、旧約聖書も真理に満ちているというのがオリゲネスの主張である。

[9] Lc.11,52.