11 それではどのように聖書の諸書を読み、それらの意味を受け取るべきかについて我々に思い浮かぶ方法は、以下のとおりである。それは、聖書の言葉そのものから跡付けることができる。『箴言』のソロモンの言葉の中に、我々は、書き記された諸々の神的な教えに関して、次のようなことが命じられているのを見出す。「そしてあなたは、それらを思慮と知識の内に、三度、書き記しなさい。それは、あなたに質問する人たちに真理の言葉で答えるためである[1]」。したがって自分自身の魂の中に、聖なる諸書の意味を三度、書き記さなければならない[2]。それは、より単純な人が、いわば聖書の肉体――我々は、手短な解釈をそのように呼ぶ――によって建徳されるためであり、ある程度、上昇した人が、いわば聖書の魂から建徳されるためであり、完成者が、「諸々の来るべき善きことの影[3]」を含む「霊的律法[4]」によって建徳されるためである[5]。また、完成者は、使徒の下で次のように言われる人たちに似ている。「しかし私たちは、完成者たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この代の知恵でも、この代の滅び行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、神秘の内に隠されていた神の知恵、すなわち、神が私たちの栄光のために、代々に先立ってあらかじめ定めてくださった知恵を語ります[6]」と。実に人間が身体と魂と霊から成り立っているように、神が人々の救いのために与えるように取り計らった聖書も、同じ仕方で成り立っているのである[7]

 それゆえ我々は、ある人たちによって軽視されている『牧者』という書物の中で[8]、ヘルマスが二つの書物を書いて、彼が霊から学んだことを教会の長老たちに報告するように命じられていることについて、次のように解釈する。そのくだりは次のとおりである。「あなたは二つの書を書いて、一つをクレメンスに、一つをグラプテーに与えなければならない。グラプテーは(それを)やもめたちと孤児たちに知らせなければならない。クレメンスは、(それを)外の町々に送られければならない。そしてあなたは、教会の長老たちに報告しなければならない[9]」。さて、やもめたちと孤児たちに知らせるグラプテーとは、剥き出しの文字それ自体である。この文字は、魂という子供たち、それもまだ神を父と呼ぶことができず、それゆえに孤児と呼ばれる子供たちに知らせる。またそれは、もはや違法な花婿[10]とは交際していないが、まだ花婿に相応しくなっていないためにやもめとなっている魂たちに知らせる。他方、既に文字から脱しているクレメンスは、言われた諸々の事柄を外の町々に送るように命じられている。これらの町は、言ってみれば、諸々の身体的なものや下方にある様々な考えから脱した魂たちである。そして霊の弟子となった人自身は、思慮のゆえに白髪となった神のすべての教会の長老たちに、諸々の文字によらず、諸々の生ける言葉によって(それを)報告するように命じられているのである。



[1] Pr.22,20-21.

[2] 同じ解釈は、Hom.Nb.IX,7にも見られる。

[3] Cf.He.10,1.

[4] Cf.Rm.7,14: 旧約聖書の文字の内に隠された霊的な意味をさす。

[5] なお、「より単純な人」(o` a`plou,steroj)、「ある程度、上昇した人」(o` evpi. poso.n avnabebhkw.j)、「完成者」(o` te,leioj)の区別は、本性的な区別ではなく、相対的な区別でしかない(Com.Rm.X,10)

[6] 1Co.2,6-7.

[7] 身体的意味と魂的意味と霊的意味という聖書の意味の三重の区別は、オリゲネスにとって実際的区別ではなく、理論的区別に過ぎない。オリゲネスは、実際の聖書解釈では、聖書の意味を文字的意味とそれ以外の霊的意味に大別するのみである。彼の幾つかの聖書講話の拙訳を参照せよ。

[8] エイレイナイオスは、この書が霊感を受けたものと見なしている(Praeceptum, I, 26, 1)。この書を軽蔑した「ある人たち」には、テルトゥリアヌスが含まれるかもしれない(De Pudicitia, X, 12)

[9] Hermas, Pastor, Visio II, 4,3.

[10] 究極的には悪魔のことであろう。後出の花婿は、明らかにキリストである(cf.Mt.25,1s)