12 しかし聖書の幾つかの箇所[1]は、以下に我々が示すように身体的なものをまったく含まないため[2]、いわば聖書の魂と霊だけを探求しなければならない箇所が存在する。おそらくそれゆえに、我々がヨハネによる福音の中に読むように、ユダヤ人たちの清めのために置いてあったと言われる幾つかの水がめは、いずれも二メトレテス[3]ないしは三メトレテス入りのものであったのだろう[4]。実にこの言葉は、使徒(の書簡)における「隠れたユダヤ人たち[5]」について暗示しているのである。彼らは聖書の言葉によって清められるが、あるときは二メトレテス、すなわち言ってみれば魂的な言葉と霊的な言葉を含む聖書の言葉によって清められ、またあるときは三メトレテスの言葉を含む聖書の言葉によって清められる。なぜなら(聖書の)幾つかの言葉は、上述の(二つの)ものに加えて、建徳するする力のある身体的なものを含んでいるからである[6]。そして六つの水がめが、この世において清められる人たちのためにあるのは当を得たことである。なぜならこの世は、完全な数である六日間に[7]造られたからである。



[1] tinej grafai,:直訳すると「幾つかの()書」ということになるが、これでは聖書が幾つもあることになるので、「聖書の幾つかの箇所」と訳しておいた。

[2] 文字通りの意味が存在しないというのではなく、有益な字義的な意味、すなわち後出の「建徳する力のある身体的なもの」(to. swmatiko.n oivkodomh/sai duna,menon)を含んでいないということである。

[3] 一メトレテス(metreth,j)は、約39リットル。

[4] Jn.2,6.

[5] Rm.2,29.

[6] 同じような解釈は、創世記講話II,6(GCS 6, 36)でより詳細に展開されている。

[7] オリゲネスは、ピュタゴラス派的な数理神秘主義を前提にして六日間を完全数と言っているのではない。世界は六日間に創造されたがゆえに(cf.Gn.1,29)、その六日間は完全だと言っているのである。