13 さて最初の解釈[1]からも利益を受けることができることについては――その点でその最初の解釈は有益である――正しい仕方で、しかしより単純に信じるに至った人たちの多くが証ししている。他方、いわば魂に関係づけられた解釈の例は、コリントの人たちに宛てられたパウロの第一の書簡の中に見出される。彼は次のように言う。「あなたは、脱穀をしている牛にくつこをかけてはならないと書かれています[2]」。次に彼は、この律法を解釈して、次のように付け加えている。「神は牛たちのことを配慮しているのですか。それとも神は、もっぱら私たちのためにそう言っているのでしょうか。もちろんそれは、私たちのために書かれました。なぜなら耕す者は望みをもって耕すべきであり、脱穀する者は分け前に与る望みをもって耕すべきだからです[3]」と。また大衆に適応されていて、より高尚な事柄を理解することのできない人たちを建徳する非常に多くの解釈も、何らかの点で同じ性格[4]を持っていると言えよう。

 霊的解釈は、「肉によるユダヤ人たち[5]」がどのような「諸々の天的な事柄の写しと影に仕えているか[6]」か、また律法はどのような「来るべき諸々の善きことの影を有している[7]」かを示すことのできる人たちのためのものである。要するに、すべての事柄について、「神秘の内に隠されていた知恵、すなわち神が義人たちの栄光のために代々に先立ってあらかじめ定めた知恵、この代の支配者たちの誰一人として知らなかった知恵[8]」が使徒の指図に従って探求されねばならない。実際、同じ使徒は、出エジプト記と民数記から幾つかの言葉を引きながら、次のように言っている。「それらのことは彼らに、象徴的に起こったのです。それらは、諸々の代の終わりが差し迫っている私たちのために書かれました[9]」。そして彼は、それらがどのような諸々の事柄の象徴であったかを示す手がかりを与えて、次のように言っている。「実際、彼らは、(彼らに)付いてきた霊的な岩から飲みましたが、その岩はキリストでした[10]」。また使徒は他の書簡で幕屋に関する事柄を素描する際に、「あなたは、山であなたに示された型に従ってすべての物を作れ[11]」という言葉を使っている。そればかりか彼は、ガラテヤの人たちへの手紙の中で、律法を読んでいると思っているが、それを理解していない人たちを非難するかのように、彼らは(それを)理解していないと断じている。彼らは、書き記されたものの中に比喩は存在しないと思っているのである。使徒は言う。「律法の下にありたいと願っているあなた方は、言ってください。あなた方は律法の言うことを聞かないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から、もう一人は自由な女から生まれたと書かれています。しかし女奴隷からの子は肉に従って生まれましたが、自由の女からの子は約束を通して生まれました。それらは比喩的に語られています。すなわち彼女らは二つの契約です[12]」云々と。彼によって言われた事柄の一つひとつに注意が払われるべきである。彼は、「律法の下にありたいと願っている人たち」――律法の下にある人たちではない――および「あなた方は律法の言うことを聞かないのですか」と言っている。使徒は、聞くという言葉を、理解し知るという意味にとっているのである[13]。そして使徒は、コロサイの人たちへの手紙の中で、一切の立法[14]の意図をわずかの言葉に要約して、次のように言っている。「ですから誰もあなた方を、食べ物や飲み物のことで、あるいは祭りや新月祭や安息日のことで非難すべきではありません。それらは、来るべき諸々の事柄の影です[15]」。さらにヘブライ人たちへの手紙の中でも[16]、割礼を受けた人たちについて論じて、「彼らは、諸々の天的な事柄の写しと影に仕えています[17]」と書いているのである。しかし以上の言葉において、使徒をひとたび神的な人物として受け入れた人たちは、モーセに帰された五書に関しておそらく疑念を抱かないだろうが、他の歴史に関しても、それが象徴的に起こったか否かを知りたいと望むことだろう。そこでローマの人たちへの手紙の次の言葉に注意が払われるべきである。すなわち「私は、バアルに膝を曲げなかった七千人の人たちを私のために残して置いた[18]」とある。これは、列王記第三巻にある[19]。パウロは、この言葉を選びによるイスラエル人たちの意味にとっている。なぜなら異邦人たちだけでなく、神の民に属する人たちの幾人かも、キリストの到来から利益を得るからである。



[1] 前出の「建徳する力のある」文字通りの意味の受容をさす。

[2] 1Co.9,9;.Dt.25,4.

[3] 1Co.9,9-10.

[4] 人間の魂に関わるという性格である。

[5] Rm.8,5.

[6] He.8,5.

[7] He.10,1.

[8] 1Co.2,7-8.

[9] 1Co.10,11.

[10] 1Co.10,4;cf.オリゲネスは『出エジプト記講話』XI,2で、モーセが棒でこの岩を打つと水が出てきたことを、百人隊体長が槍でキリストのわき腹を刺すと血と水が出てきたことに結び付けている。

[11] He.8,5; Ex.20,40.

[12] Ga.4,21-23.

[13] 彼らは律法の真の意味、すなわち霊的な意味を理解もせず知りもしないのだから、律法の下にはないのである。

[14] 訳者朱門はno,mojを「律法」、nomoqesi,aを「立法」と訳している。

[15] Col.2,16-17.

[16] エウセビオスの教会史によれば、オリゲネスはヘブル書の真作性に関して、「文体は他人のものだが、内容は本人のものである」という考えを抱いていた。拙論『エレミア書講話研究』を参照せよ。

[17] He.8,5.

[18] Rm.10,4.

[19] 1R.19,18.サムエル記上を列王記第一巻とすると、列王記上は、列王記第三巻となる。