14 このような次第であるから、我々が考えている聖書理解の諸々の特質が素描されなければならない。先ず次のことが示されるべきである。すなわち、神の摂理に従って、元に神とともにあるみ言葉を通して[1]、真理の奉仕者たちや預言者たちそして使徒たちを照らす[2]霊の目的は、何よりも、人間たち――私はここで、身体を使う諸々の魂を人間たちと言っている[3]――に関する諸々の事柄の言語を絶した諸神秘をめぐっているとうことである。それは教えを受ける能力のある者が探求し、諸々の言葉の意味[4]の数々の深みに専心して[5]、その意味が意図するすべての教えに通暁するようになるためである。次に、神に関する豊かで聡明な真理がなければ完全性を得ることのできない諸々の魂の諸神秘を知るには、神に関する諸神秘が必然的に筆頭に置かれなければならない。次にその独り子に関する諸神秘が位置づけられる。それらの諸神秘とは、その独り子の本性はどのようなものであるか。どのようにして彼が神の子であるか。人間の肉にまでみずからへりくだり、あらゆる点で人をお取りになった諸理由は何なのか、また彼の働きは何であり、その働きは誰のために、いつ起こされるのか。また必然的に、(我々と)同族の理性的存在者たちや他の理性的存在者たち――彼らがより神的な者たちであれ、至福から転落した者たちであれ――に関する諸神秘や彼らの転落の諸理由も、神的な教えの説明の中に取り込まれなければならない。さらに諸々の魂の相違に関しても、それらの違いはどこから来たのか、また世界とは何なのか、何ゆえにそれは実在するのか、それに加えて、なぜこれほどの量と質の悪が地上に存在するのか、しかも地上にばかりでなく他の場所にも存在するのかを、我々は学ぶ必要がある[6]



[1] Cf.Jn.1,1 et Com.Jn.I, 19 (22), 109-118.

[2]聖書解釈には三位の働きが必要である。Cf.eg.De Princ.IV,2,2.

[3] オリゲネスにとって人間は、本質的に身体を使用する魂である。Cf.De Princ.II,6,4; C.Cels.VII,38 etc.

[4] 原語はo` nou/j tw/n le,xewnである。これは明らかに、オリゲネスの最初解釈の原理である「キリストの思い」に他ならない。De Princ.IV,2,3: Philocalia I, 10(拙訳)とその訳注を参照せよ。

[5] Cf.1Co.2,10.

[6] 上に列挙された諸問題・諸神秘は、エレミア書講話V,13(拙訳)にも幾らか列挙されている。