16 しかしすべての箇所を通じて立法の善益が直ちに現れ、物語の一貫性と滑らかさ[1]が現れていたなら、我々は聖書の中で、明白な意味とは別の意味が理解され得るとは信じなかっただろう。そこで神のみ言葉は、律法と歴史のただ中に、数々の醜聞や躓き、不可能事のようなものを配置するように取り計らわれた[2]。それは我々が、純然たる魅力をたたえた表現にすっかり捕らわれて、神に相応しいものをまったく学ばないとして、最終的に諸々の教えから離反してしまわないようにするためであり、あるいは、文字から刺激を受けないので、我々がより神的なものを何一つ学ばないというようなことがないようにするためである。さらに次のことも知っておく必要がある。すなわち(霊の)第一の目標は、諸々の霊的な事柄における脈絡[3]を、諸々の出来事や諸々のなすべき業の内に告げることであるから、み言葉は、諸々の歴史的な出来事が諸々の神秘的な事柄に一致させることができるのを見出したときには、それらの出来事を使って、より深い意味[4]を多くの人たちから隠した。しかし諸々の可知的な事柄をめぐる一貫性[5]の叙述に際して、あらかじめ書き記された個々人の業が、より神秘的な事柄のゆえに(その叙述に)付いてこない場合には、聖書は、実際には起こらなかった出来事を歴史に織り込んだ。この出来事は、起こり得ないことであったり、あるいは起こり得ても、実際には起こらなかったものである。そしてある場合には、身体的な意味で真実ではない僅かの表現が挿入されたが、ある場合にはもっと多くの表現が挿入された。立法に関しても、同様のことが指摘されるべきである。実際、立法の中には、立法の諸々の時宜に合った善益をたちどころにかつ頻繁に見出すことができるが、有益な教えが現れていない時もあるのである。さらに別の時には、数々の不可能事が、より明敏でより探究心の強い人々のために制定されている。それは彼らが、諸々の書かれた事柄の吟味検討に専念することによって、神に相応しい意味[6]をそれらの事柄の中に探求すべきであるという理にかなった確信を得るようになるためである。しかし霊は、(キリストの)来臨以前の諸々の事柄についてだけ、以上のように取り計らわれたのではない。その霊は、唯一の神に由来する同じ霊であるから、同様のことを、諸々の福音書にも、使徒たち(の書)にも行ったのである。なぜならそれらの書は、数々の身体的な意味で織り成された諸々の出来事の純然たる歴史を必ずしも含んでいるわけではなく、実際には起こらなかった出来事の物語や、必ずしも理にかなった意味を呈示するとは限らない立法や諸々の定めを含んでいるからである。



[1] to. th/j i`stori,aj avko,louqon kai. glafuro,n)

[2] Cf.Com.Jn.X, 5(4), 18-20. 聖書における不条理や醜聞が比喩的解釈のきっかけを与えるというオリゲネスの考えは、ヘレニズムの神話解釈にも見出されるが、同時代のラビ伝承からの影響も受けているように思われる。しかしいずれにせよオリゲネスは、その比喩的解釈論を新たに展開し直している。

[3] o` evn toi/j pneumatikoi/j ei`rmo,j)

[4] o` baqu,teroj nou/j:もちろん、これは先に述べた「キリストの思い」に底通する。「(キリストの)より深い思い」と訳すべきかどうかで、訳者朱門は迷っている。

[5] h` peri. tw/n nohtw/n avkolouqi,a)

[6] tou/ qeou/ a;xioj nou/j) オリゲネスの霊的聖書解釈の大前提は、聖書全体は神的霊感によって書かれたものであり、したがってすべては「神に相応しく」理解されねばならないということである。拙論『エレミア書講話研究』を参照せよ。