17 ともかく、理解力を有する者の誰が、太陽も月も諸々の星もないのに、第一日や第二日、第三日、さらには夕べと朝が生じたと考えるだろうか[1]。天もないのにどうして第一日があったのか。神が人間の農夫のように、東の方のエデンに楽園を設け、その中に可視的で可感的な命の木を作られた、その結果、身体の歯でその実を食べた者は命を得るようになり、さらには、この木から取った実をかじることで、人は善と悪に与る[2]と考えるほど愚かな者が誰かいるだろうか。また、神が日暮れ時に楽園の中を散歩し、アダムが木の下に隠れるとしても[3]、それらのことが、外見上の物語、まさに身体的に起こったわけではない物語を通して、何らかの神秘の数々を象徴的に示していることについて疑う人はいないと、私は思っている。そればかりか、神の顔から逃げたカインは[4]、読者を動かして、神の顔とは何なのか、そして人がそれから逃げるとは何なのかを探求するように仕向けていると、知識のある人たちには明白に思われるだろう。しかしこれ以上何を言う必要があろう。なぜならまったく鈍感な人たちでなければ、実際に起こったように書き記されているが、言葉どおりに起こったわけではない、それらに類する無数の事柄を集めることができるからである。しかし諸々の福音書も、同じ表現様式[5]に満ちている。たとえば悪魔は、イエスを高い山に上らせ、そこから全世界の諸々の王国とそれらの国の栄華を彼に見せたとある[6]。そのような諸々の事柄を片手間に読まない人たちのいったい誰が、下方にある諸々の事柄を知覚するには高い所を必要とする肉の目によって、ペルシア人たちの国やスキタイ人たちの国、インド人たちの国、パルティア人たちの国が見られ、またそれらの国の支配者たちが人々の間で栄華を誇っている有様が見られると思う人たちを、非難しないだろうか。それらに類する他の無数の事柄を、(聖書を)厳密に検討する人は、諸々の福音書から取り出すことができる。そしてその人は、言葉通りに起こった諸々の物語に、実際には起こらなかった他の諸々の事柄が織り合わされていることに同意するだろう。



[1] Gn.1,5s.以下の疑問は、オリゲネス独自のものというわけには行かない。

[2] Gn.2,8-9.オリゲネスは、「善悪を知る木」と「命の木」を混同している。

[3] Gn.3,8.

[4] Gn.4,16.

[5] to. auvto. ei;doj tw/n logw/n)これは、文学類型を現す用語である。Cf.Com.Ct.prol.(GCS VIII, 77); C.Cels.IV,39; V,29; V,31; Com.Mt.X,2; X,4; X,15; Fragm.Prov.1,6(PG 13,20Cs.)

[6] Mt.4,8.