18 また我々がモーセの立法[1]に進んでみると、律法の多くの規定が、それ自体で順守される限りで、不合理なことを示しており、また他の諸規定は不可能なことを示している。不合理なこととしては、禿鷲[2]が食されることが禁じられているが[3]、どんなにひどい諸々の飢餓の下にあっても、必要に駆られてその生き物に向かおうとする者は誰もいない。また割礼を受けていない生後八日目の幼児たちは、彼らの部族から絶たれねばならないと命じられている。しかしもしもそれらに関する事柄がことごとく言葉通りに命じられねばならないとすれば、彼らの両親あるいは彼らを育てた養育者たちが滅ぼされるべきである。ところで聖書は、「八日目に割礼を受けない男児は、その民から絶たれねばならない[4]」と言っている。他方もしもあなた方が、諸々の不可能事が制定されているのを見たいと望むなら、我々は次のことに目を向けよう。山羊鹿[5]は実在し得ない生き物の一つであるが、モーセはそれを、我々が清いものとして扱うように命じている[6]。またグリフォン[7]は、かつて人間の手に入ったと報告されたことがないのに、立法者[8]はそれを食べることを禁じている[9]。そればかりか、人口に膾炙している安息日[10]についても、「あなた方はそれぞれ、あなた方の家の中に座っていなければならない。あなた方の誰一人として、第七の日に各自の場所から外に出てはならない[11]」という言葉を厳密に検討する人にとっては、それが言葉通りに順守されることは不可能である。なぜならいかなる生き物も、一日中座ったまま、座った状態から動かないでいることはできないからである。それゆえ割礼を受けた人たちや、文字通りの意味よりも偉大なものが示されること[12]をまったく望まない人たちは[13]ある事柄については――たとえば山羊鹿やグリフォンや禿鷲に関する事柄について――、その根元[14]を探究することさえしないのである。しかし他の事柄については、駄弁を弄しては巧妙な話を考案し、数々の不毛な言い伝えを持ち込んでいる[15]。たとえば彼らは、まさに安息日について、各自に許された場所は二千ペーキュス[16]であると主張している[17]。また他の人たちは――彼らの中には、サマリア人ドシテオス[18]も含まれる――、そのような説明を斥けて、人が安息の日に取った姿勢で日暮れまでいなければならないと考えている。さらには「安息の日に荷物を担いではならない[19]」ということも不可能である。それゆえユダヤ人たちの教師たちは、「際限のない作り話[20]」に走り、これこれの靴は荷物であるが、しかじかの靴は荷物ではないとか、釘を打ったサンダルは荷物であるが、釘のないサンダルは重荷ではない、また片方の肩に担われるものは荷物であるが、両肩で担がれるものは荷物ではないなどと主張している。



[1] h` nomoqesi,a h` Mwse,wj)

[2] gu/pej(単数形はgu/y).

[3] Lv.11,14.

[4] Gn.17,14.

[5] trage,lagoj)架空の動物。

[6] Dt.14,5.

[7] gru,y) 本来、ギリシア神話に出てくる架空の動物で、獅子の体に鷲の頭と翼を持つ怪物。

[8] o` nomoqe,thj)

[9] Lv.11,13; Dt.14,12.

[10] to. diabo,hton sa,bbaton)オリゲネスがどのような意味で「人口に膾炙している」という語を付けたのかこの文脈だけでは不明である。安息日の規定の解釈をめぐるユダヤ教とキリスト教徒の間の対立を暗示しているのであろうか。

[11] Ex.16,29.

[12] 直訳は「言葉以上のものが示されること」。

[13] ユダヤ教の宗規を文字通り厳守しようとするユダヤ・キリスト者を含むだろう。

[14] h` avrch,)「その根本的由来」というような意味であろう。

[15] 以下に言及されるユダヤ伝承は、オリゲネスがユダヤ教のラビたちや、彼の学塾(ディダスカレイオン)を訪れた当時の聴講生から聞き知ったものであろう。彼の思想とユダヤ伝承との関係については、拙論『オリゲネスの聖書解釈とラビ伝承』(公表予定)、あるいは、G.Bardy, « Les traditions juives dans l’oeuvre d’Origène », Revue Biblique, 34, 1925, p.217-252を参照せよ。

[16] ph,ceij(単数形はph/cuj).一ペーキュスは、本来、肘から小指までの長さを表し、約46センチ(12インチ)に相当する。したがって二千ペーキュスは、580メートルとなる。それはかなり広い範囲であると思われる。

[17] Nb.35,5.

[18] グノーシス説の父と称される紀元後一世紀のサマリア人シモンの師に当たるらしい。オリゲネスの時代には、ドシテオスの一派は、三十人に満たなかったようである。『ケルソスへの反論』VI, 11(拙訳)を参照せよ。

[19] Jr.17,21.

[20] Cf.1Tm.1,4.