19 さらに福音書に進んで似たような事柄を我々が探してみると、「あなた方が途上で誰にも挨拶してはならない[1]」ということより不合理なことが何かあるだろうか。まさにこの挨拶を救い主は使徒たちに命じていると、純朴な人たちは思っているのである[2]。そればかりか、右の頬が打たれると言われていることも[3]、まったく信じ難い。なぜなら打つ人は、その人が何か自然本性に反する事態を被っているのでなければ[4]、右手で左の頬を打つからである。また福音書によれば、人を躓かせる右目を取ることになっているが[5]、それは不可能である。実際、見ることによって誰かが躓き得るのを我々が容認するとしても、二つの目が見ているのに、どうしてその責めを右目に帰さねばならないのか。また「情欲を抱いて女性を見たこと[6]」で自分を責める人が、その責めを右目だけに帰して、その目を取り去るのは理にかなったことではなかろう[7]。さらに使徒も、次のように定めて言っている。「割礼を受けた人が召されましたか。その人は(包皮を)引き伸ばそうとしていけない[8]」。第一に、(理解を)望む人は、使徒が、自分に課せられた議論から逸れて、それらのことを言っているのに気づくだろう。実際、彼は、結婚と貞潔について定めごとをしているのだから、どうしてそれらの言葉を前後の脈絡を離れて挿入したと考えないだろうか。第二に、多くの人が割礼を受けた人に抱いている不体裁のゆえに[9]、もしも可能なら、(包皮を)引き伸ばすことに腐心する人は間違っていると、いったい誰が言うだろうか。



[1] Lc.10,4.

[2] イエスが道で出会う人たちに挨拶するように命じる箇所はないが、おそらく一般の人は、Mt.10,5以下に基づいて、イエスがそのように命じていると見なしているのだろう。

[3] Cf.Mt.5,39.

[4] これによれば、左利きは自然本性に反する。

[5] Cf.Mt.5,29; 18,9.

[6] Cf.Mt.5,28.

[7] 直訳は次のとおり:「情欲を抱いて女性を見たこと」で自分を責める人の誰が、その責めを右目だけに帰して、その目を合理的に(euvlo,gwj)取り去るだろうか。

[8] 1Co.7,18.

[9] 直訳は次のとおり:「割礼を受けたことについて多くの人々の間で考えられている不体裁のゆえに」。おそらく割礼者は、裸体をさらす公共の場(浴場や運動場)で、辱めを受けたのだろう。Cf.Josephos, Antiq.Jud.XII,5,1,241.