もしも我々が、きわめてわずかな年月の間に、キリスト教を告白する人たちが陰謀を企てられたり、それを告白することによって連れ去られたり、あるいは他の人たちは財産を失ったりしながらも、どうしてみ言葉は――しかも(それを教える)教師たちは多くないにもかかわらず――居住地の至る所に告げ知らされ[1]、その結果「ギリシア人たちも非ギリシア人たちも、知恵のある人たちも知恵のない人たちも[2]」イエスを通した敬神に与し得たのかを理解するなら、我々は、それが人間業を超えたものであると言うのを躊躇わないだろう。なぜならイエスは、ご自分のみ言葉が勝利するようにと、あらゆる権能と説得力をもってそのみ言葉を教えたからである。したがって、たとえば彼の次の言葉を、我々が予言と見なすのは理にかなったことである。「またあなた方は、私のことで、王たちや指導者たちの前に連れ出されるであろう。それは、あなた方が彼らと諸国民に対して証しをするためである[3]」。また「その日には多くの人たちが私に言うであろう。『主よ、主よ、私たちはあなたの名において食べ、あなたの名において飲み、あなたの名において悪霊どもを追い出したではありませんか』と。私は彼らに言おう。『不正を行う者たちよ、あなた方は私から離れなさい。私は、あなた方をまったく知らない』と[4]」。それらのことが空しく表明されとすれば、それらは真実にはならなかったと、おそらく言うことはできよう。しかしかくも大きな権威をもって言われたことが実現したということは、彼が、本当に人となって、救いの教えを人々に託した神であることを示している。



[1] Cf.Mt.24,14.

[2] Rm.1,14.

[3] Mt.10,18.

[4] Cf.Mt.7,22.