21 しかしながら正確(な理解)を期す人は、或る幾つかの事柄に関して多大な吟味なくしては、歴史であると見なされている個々の事柄が言葉通り起こったのか否か、そして個々の立法の言葉が遵守されるべきか否かを明確にすることができなくて思い惑うであろう。それゆえ(聖書を)正確に読む人は、「あなた方は聖書を調べなさい[1]」と言う主の命令を守って、どこで言葉通りの事柄[2]が真実なのか、どこでそれが不可能なのかを慎重に吟味し、同様の諸表現から、言葉通りでは不可能な事柄の意味――この意味は聖書の至る所に散りばめられている[3]――を力の限り辿り当てねばならない。さて、読者の人たちには明らかになるように、言葉通りの脈絡が不可能でも、主導的な脈絡は不可能でないばかりか真実であるから[4]、言葉通りには不可能な諸々の事柄に関する説明を、歴史的に不可能でないばかりか真実である諸々の事柄と知性の上で[5]結び付け、言葉通りには起こらなかった諸々の事柄と合わせて比喩的に解釈しながら、意味の全体を把握するように努力しなければならない[6]。実際、我々は、神的な書全体に対して、次のような心構えで臨んでいる。すなわち聖書の全体は霊的な事柄を持っているが、すべてが身体的な事柄を持っているわけではない。なぜなら多くの箇所で、身体的な事柄が不可能であることが明らかにされるからであると。それゆえ用心深い読者は、神的な諸書をまさに神的な書物として、それらに多大の注意を払わなければならない。聖書理解の特質はこのようなものであると我々には思われる。



[1] Jn.5,39.

[2] to. kata. th.n le,xin)

[3] o` pantacou/ diesparme,noj th/j grafh/j nou/j tou/ kata/ th.n le,xin avdu,na,tou)もちろんこの意味(nou/j)は、訳者朱門が訳注で何度も指摘しているように、「キリストの思い」に至る。

[4] 直後を読めば明らかだが、これは、聖書をもたらした霊の主導的な意味である霊的な次元での脈絡をさす。Cf.Philoc.I,16.

[5] nohtw/j)「思考を働かせて注意深く」という意味もある。異なる箇所の意味の比較は、いわば文法的には(grammatiw/j)結びつかないので、オリゲネスはこのような言葉を使うのだろう。しかし他の箇所との比較によってより深い意味を探る手法は、オリゲネスに独自のものではなく、既にホメロス解釈に見られる伝統的な手法である。

[6] この一文は、オリゲネスの聖書解釈の手法を端的にまとめている。参考までに原文を挙げておく。