22 (聖書の)諸々の言葉は、神が地上のある民族をお選びになったことを物語っている。そしてその民族は多くの名前で呼ばれている。実際その民族全体はイスラエルと呼ばれ、ヤコブとも言われている。しかしナバトの子ヤラベアムの時代にそれが二つに分けられたとき、彼の統治下にあったと言われる十の部族はイスラエルと呼ばれ、残りの二つの部族とレビ族は、ダビデの種から出た人たちによって治められ、ユダと呼ばれた。そしてこの民族から出た人たちが、神から与えられて居住する場所の総体はユダヤと呼ばれる。その首都はエルサレムであり、明らかに多くの町の首都でもある。それらの町の名は、(聖書の)多くの箇所や他の箇所にも散在するが、ヌンの子ヨシュアの書に一括して記載されている[1]。ことの次第が以上の通りなので[2]、使徒は、我々の思考力[3]を高めようとして、或る箇所で次のように言っている。「あなた方は、肉によるイスラエルを見なさい[4]」。それはあたかも、霊による何らかのイスラエルが存在するかのごときである。また他の箇所では次のように言っている。「肉の子らが、神の子らなのではなく[5]」、「イスラエルから出た人たちが、イスラエルなのではありません[6]」。また「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、肉における外見上の割礼が割礼なのではありません。かえって隠れたところにいるユダヤ人がユダヤ人であり、文字によらず霊における心の割礼が割礼なのです[7]」。実に(外見上の)ユダヤ人が隠れたユダヤ人から区別されているのであれば、身体的なユダヤ人たちの種族[8]が存在するのと同様に、隠れたところにいるユダヤ人たちからなる民族のごときものが存在すると考えられねばならない。魂は、曰く言い難い数々の理由に従って、そのような高貴な生まれを持つのである[9]。そればかりか多くの予言が、イスラエルとユダについて予言し、やがてそれらに起こる数々の事柄を述べている。それらに対して書かれたかくも多くの告知が、言葉通りにはまったく低級で、向上的な事柄や神の告知に相応しい事柄を微塵も示さないのであるから、いったいそれらの告知は、神秘的な上昇的解釈を必要としないのだろうか[10]。またそれらの可知的な告知が諸々の感覚的な事柄を通して述べられているとすれば、それらの告知の諸対象は、身体的なものではない。



[1] Jos.13-21.

[2] オリゲネスは以下で、パウロの言葉を拠り所に、可知的な形而上学的世界を構築しようとしている。それは、(中期)プラトン主義的な世界観のキリスト教的再解釈である。

[3] to. dianohtiko.n h`mw/\n)

[4] 1Co.10,18.

[5] Rm.9,8.

[6] Rm.9,6.

[7] Rm.2,28-29.

[8] 訳者朱門は、e;qnojを「民族」、fulh,を「部族」、ge,nojを「種族」と訳している。

[9] オリゲネスに特有の仮説である霊魂先在説を前提にした陳述である。

[10] a,nagwgh. mustikh,) オリゲネスの場合、これは比喩的解釈の範疇に入るが、その規定は曖昧である。