23 さて、隠れたところにいるユダヤ人に関する説明とイスラエルの「内なる人[1]」に関する説明に我々が暇取らないようにするためにも、また鈍感でない人たちには以上の説明で十分であるから、我々は目下の課題に戻って、ヤコブは、十二人の族長の父であり、後者は氏族長たちの父であり、さらに後者は、彼らに続くイスラエル人たちの父であると言うことにする。してみると一方で、身体的なイスラエル人たちは氏族長たちに遡り、氏族長たちは族長たちに遡り、族長たちはヤコブおよびそれ以前の人たちに遡るのであるから、他方で、可知的なイスラエル人たちは――彼らの象徴が身体的なイスラエル人たちである――諸々の氏族に由来し、諸々の氏族は諸々の部族に由来し、諸々の部族は、このような身体的な生まれを持たず、もっと優れた生まれを持つただ一人の人に由来するのではないだろうか。そしてこの人はヤコブから生まれ、後者はアブラハムに由来し、こうしてすべての人が、使徒がキリストであると言ったアダムに遡るのではないだろうか[2]。実に、いわば万物の神の子孫である人たち[3]の諸々の家系の一切の元はキリストに始まったのであり、キリストは、アダムがすべての人たちの父であるように、万物の神に次いで、一切の魂の父でもあるのである。さらにもしもエバが、パウロによって取り上げられ、教会として比喩的に解釈されているのであれば[4]、カインはエバから生まれ、それに続くすべての人たちがエバに遡るのであるから、教会の数々の浮彫[5]が存在するとしても驚くべきことではない。なぜならすべての人が、根源的な理由で教会から生まれたからである[6]



[1] Rm.7,22.

[2] 1Co.15,45. なお訳者朱門は、dh,marcojを「氏族長」、patria,rchjを「族長」、dh,mojを「氏族」と訳している。「部族」はfulh,の訳である。

[3] oi` w`j pro.j to.n tw/n o[lwn qeo.n katwte,rw) 直訳は、「いわば神に対して下方にいる人たち」。

[4] Ep.5,31-32.

[5] evktupw,mata th/j evkklhsi,aj) 「教会の諸象徴・数々の反映」とも訳すことができるが、いずれにせよこの句は、神への愛を多かれ少なかれ冷やした諸々の魂によって構成される天の諸教会をさす。

[6] この一文は、次節に引用されるパウロの言葉(Ga.4,26)によって説明されるだろう。