24 イスラエルとその諸々の部族、その諸々の氏族に関して我々によって言われた事柄が衝撃的なことであるとしても――なぜなら救い主は、「私は、イスラエルの家の失われた羊たちのところ以外には遣わされていない[1]」と言っているからである――、我々はこの言葉を、理解の貧困なエビオン派の人たち――彼らは、貧困な理解にちなんでそう名づけられている。実際、貧しい人はヘブライ語でエビオンと呼ばれる[2]――のように受け取って、キリストは肉的なイスラエル人たちのところに優先的に訪れたと憶測したりはしない。なぜなら「肉の子らは、神の子らではない[3]」からである。さらに使徒は、エルサレムについて何かしらそのようなことを教えている。すなわち「上にあるエルサレムは自由であり、それは私たちの母である[4]」と。また他の書簡にも、「しかしあなた方は、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、天使たちの無数の大祭典、諸々の天に登記された長子たち教会に近づいたのです[5]」とある。したがってもしも諸々の魂の種族の内にイスラエルがあり、天にエルサレムのような都のごときものが存在するなら、イスラエルの諸都市が、諸々の天の内にあるエルサレムを首都[6]として持つのは必然である。またユダヤ全体についても、必然的に同じことが言える[7]。このようなわけで、エルサレムについて予言され、それについて言われている事柄はすべて、もしも我々がパウロの言葉を、いわば神に代わって知恵を語る人の言葉として聞くなら[8]、天にある諸都市について、そして聖なる地の諸都市を包括する場所全体について聖書は語っていると理解されねばならない。実際、救い主は、おそらく我々をそれらの諸都市に比喩的に導こうとして[9]、諸々のムナ[10]をよく管理して評価の高い人たちに十ないしは五の都市の支配権をお与えになるのである[11]



[1] Mt.15,24.

[2] ユダヤ・キリスト教起源のキリスト教諸派の一つで聖書を文字通りに受け取り、パウロを中傷していたらしい。Cf.C.Cels.II,1(拙訳): Hom.Jr.XIX,12(拙訳);Eusebios, HE.III,27; V,8,10; VI,17. 本文ではエビオン派は貧困な理解にちなんで名づけられたとなっているが、その名は本来、創始者が厳格な清貧(Act.2,44-45)を実践していたことに由来するようである。

[3] Rm.9,8.

[4] Ga.4,26.

[5] He.12,22-23.

[6] mhtro,polij) 「母なる都」とも訳せる。オリゲネスはパウロの言葉、「上にあるエルサレムは、・・・私たちの母である」(Ga.4,26)を根拠に、エルサレムを天にある諸都市の母なる都すなわち首都としている。

[7] 同様の見解は、Hom.Nb.XXVII,2(拙訳); Hom.Jos.XXIII,4にも見出される。

[8] Cf.1Co.3,6 et 2Co.13,3.

[9] h`ma/j a,na,gwnを「我々を比喩的に導く」と訳した。「我々を導きあげる」が直訳である。

[10] ギリシアの貨幣で、一ムナは百ドラクマ、一タラント(新約時代の労働者の十六年分の賃金)の六十分の一に相当する。

[11] Lc.19,17-18; Hom.Lc.XXXIX,7; Hom.Jos.XXIII,4.