25 したがってもしもユダヤに関する予言やエルサレムやイスラエル、ユダ、ヤコブに関する予言が、我々がそれらを肉的に受け取らない場合、あれこれの諸神秘を暗示しているのであれば、必然的にエジプトとエジプト人たち、バビロニアとバビロニア人たち、ティルスとティルス人たち、シドンとシドン人たちおよびその他の諸国民に関する諸予言も、たんにそれらの身体的なエジプト人たち、バビロニア人たち、ティルス人たち、シドン人たちに関してだけ予言しているのではないだろう[1]。実にもしも可知的なイスラエル人たちがいるとすれば、可知的なエジプト人たちやバビロニア人たちも存在するのは必然である。実際、エゼキエル書に書き記されている諸々の事柄が[2]、エジプトを支配したあるいは支配するであろう何某かの人間としてのエジプト王ファラオに関して言われているとするのは、まったく不適切である。それは、注意深く考察してきた人たちには明らかだろう。同様にティルスの支配者に関する諸々の事柄も、ティルスを支配するであろう何某かの人間に関するものとしては理解され得ない[3]。またネブカドレツァルに関して多くの箇所で、取り分けイザヤ書で言われている諸々の事柄も[4]、その人間に関するものとしてどうして受け取ることができようか。実際、人間ネブカドレツァルは、天から落ちなかったし、明けの明星でもなかったし、暁に大地に昇ることもなかった。またエゼキエル書でエジプトについて言われている諸々の事柄も、たとえばエジプトは四十年の間、荒れ野となり、そこには人跡が見出されないとか[5]、いつか戦いが仕掛けられ、その全体が膝まで血で覆われるということは[6]、理解力のある人なら[7]、体を太陽で黒くしたエチオピア人たちに隣接するエジプトに関するものとは受け取らないだろう。



[1] 以下のオリゲネスの比喩的解釈は、聖書の字句の厳格な字義的解釈を前提としなければ成立し得ない。

[2] Cf.Ez.29s.

[3] cf.Ez.26s.

[4] Cf.Is.14,12.

[5] Cf.Ez.29,9-12.

[6] Cf.Ez.30,10; 32,6.

[7] nou/n tij e;cwn) 直訳は「思いを持つ人」。聖書の比喩的解釈には、「キリストの思い」を持つことが必要である。