26 しかし、此岸に属する人たち[1]が共通の死によって死んだとき、彼らが黄泉と呼ばれる特別な場に相応しいと判断された場合には、この世で為された諸々の業に基づいて応分に案配され、諸々の罪に応じて様々な場所を得るように[2]、おそらく彼岸に属する人たちも[3]、いわば死んだとき、彼らがこの地上のあらゆる場所にある様々のより善き、あるいはより悪しき住居に、しかもあれこれの父祖たちの許にいるのが相応しいと判断された場合には、この世の黄泉[4]に降りてくるだろう。たとえばイスラエル人がかつてスキタイ人たちのところに落ちたことや、エジプト人がユダヤに降っていったことがあり得るのである。もちろん救い主は、(もともと)イスラエルの家の失われた羊たちを集めに来た[5]。しかしイスラエルから出た多くの人たちが彼の教えに従わなかったので、まさに諸国の民から出た人たちが召されたのである[6]



[1] oi` evnqeu/qen)「ここに属する人たち」が直訳。この世にいる人たちをさす。

[2] Cf.Mt.11,23; Lc.16,22.

[3] oi` evkeiqen)「かしこに属する人たち」が直訳。前節で述べられた天界にいる人たち(魂・理性的存在者)をさす。

[4] o` a[dhj ou-toj) 「この黄泉」が直訳。天界から見れば、この世は「黄泉」である。

[5] Mt.15,24 et Ln.11,52.

[6] 最後の二文は直前の文脈に合わないように思われるかもしれない。しかしイエスの教えを聞き入れなかったイスラエルの人たちは、天から「落ちた」スキタイ人に対応し、イエスの教えに従った異邦人たちはユダヤに「降りた」エジプト人に対応させられているのである。なおこの節には、フィロカリアの編者による意図的な削除が幾つかあることが、ルフィヌスのラテン語訳とヒエロニムスのラテン語訳から判明している。この点については、訳者朱門は、かつて『オリゲネスの宇宙論』(未公表)と題して詳細に論じた。機会があればこの論文を公表したい。