27 しかし我々が思うに、それらのことは諸々の歴史の中に隠されている。実に「諸々の天の国は、畑に隠されている宝に似ている。それを見つけた人はそれを隠し、喜びながらその場をこっそり離れ、持ち物をすべて売って、その畑を買うだろう[1]」とある。そして我々は、聖書に記された可見的な事柄、その表面的な事柄、手近な事柄[2]は、まさにあらゆる種類の植物に満ちた畑全体ではないかどうか、逆に、(聖書の)中に貯えられているが[3]、すべての人々に見られるわけではなく、いわば目に見える諸々の植物の下に埋めて隠されている諸々の事柄は、「知恵と知識の諸々の隠された宝」ではないかどうか[4]、我々は検討することにしよう。これらの宝を、霊はイザヤを通して、暗闇に置かれていて、目に見えない隠された宝と呼んでいる[5]。これらの宝が見出されるには、神が必要である。なぜなら神だけが、それらを隠す諸々の青銅の扉を破り、これらの扉に置かれた諸々の鉄のかんぬきを折ることができるからである[6]。こうして魂の様々な真の子孫、いわばその様々な種子[7]――彼らはイスラエルの近くのどこか、あるいは遠くのどこかにいる――に関して創世記に記された諸々の事柄[8]や、七十の魂がエジプトへ降り、その地で「数において天の諸々の星のようになった[9]」ことが明らかにされるだろう。しかしそれらの魂から出たすべての者たちが世の光なのではないから――なぜならイスラエルから出た者が皆、イスラエルではないからである[10]――七十の魂たちから出た者たちの中には、海辺の無数の砂のようになった者もいる[11]



[1] Mt.13,44. 同様の解釈は、『マタイ伝注解』X,6にも見られる。

[2] to. blepo,menon th/j gragh/j kai. to. evpipo,laion auvth/j kai. pro,ceiron)

[3] ta. evnapokei,mena) オリゲネスにとって聖書の霊的な意味は、聖書の外にあるのではなく、まさにその内部にある。

[4] Cf.Col.2,3:「知恵と知識のすべての諸々の宝は彼(=キリスト)の内に隠されている」。オリゲネスは、パウロのこの言葉をほとんど言葉通りに引用し、聖書の霊的な意味がすべてキリストに関係づけられていることを暗示している。やはりオリゲネスにとって聖書の本来的な意味(文字通りの意味も比喩的な意味も)は、「キリストの思い」に行き着くのである。このことについては、やがて訳者朱門が厳密に立証するであろう。

[5] Cf.Is.45.3.

[6] Cf.Is.45.2.

[7] ta. dia,fora avlhqina. yuch/j ge,nh kai. oi`onei. spe,rmata)

[8] Cf.Gn.10; 11; 25; 36; 46.

[9] Dt.10,22.

[10] Rm.9,6.

[11] Cf.He.11,12; Gn.22,17. オリゲネスは魂の様々な種族の中に、「天の諸々の星のようになった」ものと、「海辺の無数の砂のようになった」ものとを区別している。前者は「世の光」として神の救いの業に参与させられたものであり、後者は罪によってこの世に「落ちた」ものである。Cf.Hom.Gn.IX,2. なお『諸原理について』からの抜粋は、ここで終わる。