28 神のすべての賜物が死すべき存在をはるかに超えて偉大であるのと同様に、それらすべてに関する知恵を表す正確なみ言葉[1]も、まさにそれらが(聖書に)書き記されるように配慮する神の許にあって(死すべき存在をはるかに超えて偉大です)。そのようなみ言葉は、もしもみ言葉の父が望むなら、知恵の把握に関する人間的な弱さの自覚と全き熱意とによって最高度に清められた魂の許に来るでしょう。しかしもしも誰かが、神の知恵とみ言葉――このみ言葉は「元に神とともにあり[2]」、それ自身神である――の言い表しがたさを弁えず、それら(の諸々の賜物)は神であるみ言葉に従って、しかも神の許にある知恵に従って探求され見出されるべきであることを知らずに、性急に(それらの探求に)専念するなら、そのような人は、必ずや、神話と愚かな話と作り話に陥り、不敬虔の危険に身を委ねるでしょう[3]。ですから、集会の書の中で、ソロモンによって言われている掟が思い起こされるべきです。彼はこう言っています。「あなたは、神のみ前で、せいて言葉を発してはならない。なぜなら神は上の方の天の内に、あなたは下の方の地上にいるからだ。それゆえ、あなたの言葉数を少なくしなさい[4]」と。

 聖書の諸々の文字は、神の知恵を欠いた空虚な「一点[5]」も持っていないと信じるのが適切でしょう[6]。実際、人間である私に命令を下して、「あなたは、私の前に空虚なまま現れてはならない[7]」と言われる方が、ましてご自身で空虚なことを何ごともお語りになるはずがありません。実に預言者たちは、その方の「満ち充ちた豊かさから受け取って[8]」話をします。それゆえすべて(の文字)は、「満ち充ちた豊かさ」に由来する事柄に息づいていて[9]、預言書にも、律法書にも、福音書にも、使徒書にも、「満ち充ちた豊かさ」に由来しないものは何も存在しません。(聖書のすべての文字は)「満ち充ちた豊かさ」に由来しますから、「満ち充ちた豊かさ」に属する諸々の事柄を見ることのできる目を持ち、「満ち充ちた豊かさ」に由来する諸々の事柄を聞くことのできる耳を持ち[10]、「満ち充ちた豊かさ」に由来する諸々の事柄の芳香を嗅ぐことのできる感覚器官を持っている人たちにとっては、(聖書のすべての文字は)「満ち充ちた豊かさ」に息づいているのです[11]

あなたが聖書を読んで、その美しい意味の中で[12]、「躓きの石と醜聞の岩[13]」に突き当たったとしても、あなたは自分自身を責めなければなりません[14]。あなたは落胆して、この「躓きの石と醜聞の岩」は、「信じる者は、辱めを受けない[15]」という言葉を実現させるような数々の意味を含んでいないと思わないでください。先ずあなたは、信仰を持ってください。そうすればあなたは、醜聞と思われている事柄の下に、多くの聖なる利益を見出すでしょう。



[1] o` avkribh.j lo,goj th/j peri. pa,ntwn tou,twn sofi,aj) 「これらすべてに関する知恵の正確な意味」と訳しても構わないが、この意味は直後で、ロゴス・キリストと同一視されているので、本文のようにいささか不自然な日本語で訳してみた。しかしこれは、『フィロカリア』I,10o` avkribh.j nou/j( a[te nou/j w;n Cristou/ (正確な意味は、キリストの思いであるからには)と見事な対照をなす。物事の真の意味や説明は、最終的には知恵でありみ言葉である限りのキリストに帰着する。なお本段落は、ギリシア語原文ではフィロカリアにしか現存せず、オリゲネスのどの作品からの抜粋なのかが不明である。しかしフィロカリアの編集方針や後続の段落の出展箇所から判断して、本段落は『エレミア書講話』からの抜粋であると考えられる。

[2] Cf.Jn.1,1.

[3] グノーシス主義者を暗示している。

[4] Qo.5,1; オリゲネスは、詩編注解第1巻の序文(PG 12, 1080 A)でも、Sextusの言葉――神について真理を語ることは危険を伴う――を引用しながら、神について不用意に語ることは無謀であると言っている。

[5] ke,raia: cf.Mt.5,18.

[6] 本段落は、現存するヒエロニムスのラテン語訳から、『エレミア書講話』のギリシア語断片であることが判明している。両者を比較すると、ヒエロニムスのラテン語訳は、修辞的な加筆を除いて――ただしギリシア語原文の意図的な削除も考えられるが、ここでは検討しない――原文に忠実である。

[7] Cf.Ex.23,15.

[8] Cf.Jn.1,16; Com.Jn.6 (3), 15-16; 6 (6)m 35.

[9] pa,nta pnei/ tw/n avpo. plhrw,matoj) 「すべては、満ち充ちた豊かさに属する諸々の事柄(=充満)に充ちて、それらを発散している」とするのが厳密な訳。聖書全体は、その一点一角に至るまで、神的霊感を受けて、神の「満ち充ちた豊かさ」の幾ばくかを内包し横溢しているのである。

[10] Cf.Dt.29,3; Rm.11,8.

[11] 霊的感覚については、次書を参照せよEntretiens avec Héraclide, 16, 11 à 22, 12 (SC 67, p.88-89).

[12] noh,mati o;nti kalw/|) 聖書の意味や意図(no,hma)は、詰まるところキリストの思い(nou\/j tou/ Cristou/)の内容である。

[13] Cf.Rm.9,33; Is.8,14.

[14] 非難されるべきは、聖書の真の作者である神ではなく、その真の意図(bou,lhma)を把握できなかった読者自身であるというのが本文の狙いである。なお本段落は、フィロカリアのみから知られる『エレミア書講話』ギリシア語断片である。もちろんそのラテン語訳も存在しない。

[15] Rm.9,33; Is.28,16.