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 詩篇第五十番注解[1]からの抜粋。ウリヤに関する歴史の始めを部分的に比喩的解釈した後、彼は付け加えている。

29 しかしもしも歴史を部分的に比喩的解釈しておきながら、その全体を一様に解釈しなかったことが[2]、強引であると誰かに思われるとすれば、私が上で述べたことは無駄であり、その箇所に関してさらに別の解釈が探究されねばならないのは明らかである――もしも誰かがその箇所に関する事柄をもっとよく吟味して、次の事柄のすべてを(曲解から本来の解釈に)[3]回復できているのでなければ。すなわちその事柄とは、殺された男に関する事柄、しかも民が戦場にいて戦っている最中に自分の家に帰って休むことを望まなかった彼の明らかな善良さに関する事柄である[4]。しかし、それらの事柄に関する比喩的解釈を避けて、言葉は言葉のために書き記されたのだと思い込んでいる人たちが、どのようにして聖霊の意図[5]に賛同するのか私には分からない。すなわち聖霊は、ダビデの放縦と残忍さ、非人間性が非難されている事柄を書き記されるに相応しいとしたのである。ダビデは、ウリヤに対して常軌を逸した業を敢えて行っておきながら、適切に改善された品行を獲得したのであった[6]。私としては次のように言いたい。すなわち、神の「諸々の裁きが偉大で説明し難く、教養のない魂たちの迷い[7]」の原因であると見えるのと同様に、神の諸々の書も偉大であり、言語を絶した、神秘的で、考察し難い諸々の意味に満ちている[8]。そしてそれらの書は、きわめて説明し難いものであり、異端者たちの教養のない魂たちの迷いの原因になっているように見えると。彼らは、自分たちには理解できない聖書(の諸々の箇所)に基づいて、無思慮にも、「せいて[9]」神を非難し、それによって別の神の捏造に陥ってしまったのである[10]。したがって(物事の真の意味を)明らかにするみ言葉の解釈、しかも神秘の内に隠されていた知恵の解釈を待つのが堅実である[11]。「この知恵を、この代の支配者たちは誰一人として知りませんでした[12]」。しかしその知恵は、「代々にわたって秘められていた神秘が啓示されたとき、諸々の預言書を通して[13]」、しかも「元に神とともにあったみ言葉[14]」である「私たちの救い主の出現[15]」を通して、使徒たちと彼らに似た人たちに明らかにされたのである。



[1] オリゲネスは、アレクサンドリア時代に詩篇第一番から二十五番までの注解、所を替えてカイサリア時代には詩篇全体の注解と部分的な講話、最晩年には詩篇のスコリアを残している。しかしいずれも完全な形では現存しない。

[2] to. evk me,rouj me.n i`stori,an avllhgorh/sai mh. evxomali,sai de. auvth.n)訳者朱門が「全体を一様に解釈する」という日本語を当てたギリシア語evxomali,zeinの本来の意味は、「滑らかにする、一様に均す、同質のものにする」などである。この語は、オリゲネスの比喩的解釈の手法をよく表している。聖書の霊的解釈は、文字通りの意味に平行して、霊的意味の脈絡(e`irmo,j tw/n pneumatikw/n / avkolouqi,a)の糸を辿りながら、すべてに及ばなければならないのである。その具体例は、たとえば天上のエルサレムの解釈に示されている(Cf.Philocalia, I, 20-27)evxomali,zeinの他の用例は、次の二箇所に見られる。Com.Jn.20 (12), 95; Com.Mt.15, 1-2.

[3] ( )は、これまでもしばしば出てきているが、すべて訳者朱門の補足的説明である。

[4] Cf. 2S.11,2-17.

[5] to. bou,lhma tou/ a`gi,ou pneu,matoj) 「聖霊の意図」は「神の意図」であり、「キリストの思い」でもある。

[6] Cf. 2S.12,13-23.

[7] Sg.17,1.

[8] peplhrwme,nai nohma,twn eivsin avporrh,twn kai, mustikw/n kai. dusqhwrh,twn)意味と訳したギリシア語の原語は、もちろん考え・意図・思いの対象たるnoh,mataである。

[9] Qo.5,1 et cf. Philoc.1, 28.

[10] グノーシス主義者たちの誤りは、霊感を受けた聖書の真の意味を探ることなく、聖書の字句を性急に、「せいて」判断したことにある。

[11] 聖書の誤りのない確実な解釈は、諸々の秘められた意味を内包する知恵であり、それらを啓示するみ言葉である「キリストの思い」を得て初めて可能となる、と言ってよいだろう。

[12] 1Co.2,8.

[13] Rm.16,25-26.

[14] Jn.1,1-2.

[15] 2Tm.1,10.