では、キリストが予言されていたということについては、何と言うべきだろうか。「彼のために取っておかれたもの、すなわちみ国が来たり、諸国民の希望が訪れたとき、ユダ族出身の支配者と呼ばれる人たち、ユダの股からいずる指揮者と呼ばれる人たちは跡絶えるだろう[1]」とある。明らかに歴史そのものから、今日に目撃されている諸々の事柄から、イエスの時代以来、ユダヤ人の王と呼ばれる人たちはもはやいないのは明らかである。ユダヤ人たちが誇っていたすべての事柄――私は、神殿や祭壇、(そこで)果たされていた礼拝、大祭司の諸々の祭服に関する事柄のことを言っている――は、破壊されてしまった。実に、「多くの日の間、イスラエルの子らは、王なく、支配者なく、犠牲なく、祭壇なく、祭司職なく、諸々のウリム[2]もなく、座すであろう[3]」という予言が成就したのである。

 我々がこれらの言葉を使うのは、次のように主張する人たちに対してである。すなわち彼らは、創世記の中でヤコブによってユダに言われた言葉に悩まされて、ユダ族出身の指導者が民を治め、彼の種から出た人たちは、彼らが想像するメシアの到来まで跡絶えることはないと主張しているのである[4]。しかし「多くの日の間、イスラエルの子らは、王なく、支配者なく、犠牲なく、祭壇なく、祭司職なく、諸々のウリムもなく座す」とすれば、神殿は破壊され、犠牲も祭壇も祭司職も存在しなくなったからには、ユダ族出身の支配者、ユダの股からいずる指揮者が跡絶えてしまったのは明らかである。「彼のために取っておかれたものが来るまで、ユダ族出身の支配者、ユダの股からいずる指揮者は跡絶えることがないだろう」と予言は言っているのであるから、彼のためにとって置かれたもの、諸国民の希望が訪れたことは明らかである。しかもそのことは、キリストを通して神を信じるに至った諸国民の数の多さからも明らかである。



[1] Gn.49,10(LXX).

[2] ()祭司が神意を問うために使用した道具で、胸当ての中に入れていた。形状は不明。Cf.Nb.27,21; Ex.28,30.

[3] Os.3,4.

[4] エルサレムの神殿の崩壊後(紀元後70)も、ユダ族出身の大祭司に代わって、衆議会(サンヘドリン)の長すなわち「指導者」(evqna,rkhj)が王のように君臨しているのであるから、メシア(=キリスト)はまだ到来していないという意味である。たしかにこれらの指導者たちは、ローマ帝国の支配下にあっても、「王のように」振舞うことを許されていた。『アフリカヌスへの手紙』(拙訳)20(14)を参照せよ。